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思い その76「夏目漱石もそう思っていたのか… 個人が孤立する理由を」


現代社会 イメージ過日、新聞のコラムを見ていたら、ある一文が目に飛び込んできました。それは「昔の職業というものは大まかで、なんでも含んでいる」。一読して俄かにはその意味が分かりかねました。その言葉の主は夏目漱石…。その言葉の意味なるものをその後に続けて「解説」してあるのですが、そこで新聞から目を離して、その言葉の意味について考えてみることにしました。別に、大文豪である夏目漱石の言葉であるから深い意味があるのだろうと思ったわけではありません。頭が反応したのは単純にその言葉に対してです。「昔の職業というものは…」、という事は今の時代ほど会社やその従業員であるサラリーマンなるものが多かったわけではなく、稼業があり農業や漁業、行商などなど、今よりもバラエティーに富んだ様々な職業があったのでしょう。

で、「大まかで、なんでも含んでいる」と続きますが、まず「大まか」について考えてみました。愛用の新解さん(国語辞典)には「大体の所を押さえるだけで、細かい所は・どうでもいいとする(他人に任せるような)様子」とあります。ふむふむ、なるほどです…、が、「他人に任せるような」はあくまでも説明のためのイメージなのでしょうけど、新解さんはここの部分がまさに本領なのに、これはイマイチ「キレ」がありませんね。どうせなら「成り行き任せのような」のほうがシックリときます。「大体の所を押さえるだけで~云々」はそのまま腑に落ちます。

次は「何でも含んでいる」なのですが、これは言葉として分解しようがありませんね。意訳的にいくつか考えてみると「色々なものがある」「ひとつだけではない」「あれもこれもある」「何でもあり」「これだけってのは無い」「どうにでもなる(ちょっと違うか…)」等々。キリがありませんが、私的にシックリくるのは「あれもこれもある」ですかね。で、「大まかで、なんでも含んでいる」という言葉を、新解さんの説明と、私の意訳とで解釈してみると「テキトーであって、あれもこれもある」ってことになりますかね(ちなみに、個人的には「テキトー」って言葉が好きです)。うーん、この言葉には勝手ながら、かなり風呂敷の広さ、というか度量の大きさを感じますね。それほど格調高い言葉ではないにせよ。

ここで、そのあとに続く夏目漱石の言葉の解釈(説明)を改めて読んでみます。まず、今から百年以上前に始まった明治という時代の文豪が、当時の世情を見て、「職業がどんどん細分化されていく中」とまず前提を置いて、その上でこう述べているようです。「大卒の若者が『何か生活の手蔓(てづる)はないか』と朝から晩まで探して歩く姿」は「不経済」であると断じているのです。これって、現在でいう「就活」、就職活動のことではないですか。当時と今とを比べれば大学の数も学生の数も桁が違うでしょうけど、その景色は同じだったという事でしょうか。文豪の目に映ったのは、現代へと続く、世の中の姿だったという事ですか…。まさに慧眼(けいがん:物事の本質を見抜く眼力)。

昔は一人の者がいくつもの商売をして、その場でどうにもならないものはとりあえずの間に合わせもので何とかしたそうです。例えば行商なんてのは、その時々に人が必要としているものを、無いなら無いなりに代替物を見つけて商売にしたとかって事でしょうか。対象が学生でしょうから適当な例えではないでしょうけど、生活の卑近な所でいえば、ホウレンソウが不作ならコマツナを仕入れてくるとか、反物が無けりゃパッチワークで布をつなげるとか、梯子が無けりゃ竹やぶで竹を切って作るとか、おそらくはタンスをどこからか見つけてくるというようなリサイクル的なこともあったでしょう。みな想像ですけど…。

つまり、全ては「工夫」です。その時々に考えて。漱石はこのように言います。「知識や興味の面積が日に日に狭められ」ていると。その結果として「個人が孤立」し、ひどく「無能」になりつつある、と。これは夏目漱石がその講演のなかで話したことのようですが、なにやら「ピーターの法則(補足説明※11)」に通ずるようなものを感じてしまいます。世の中が次第に「組織化」し「効率化」するという近代化の中で、構造的に人はその一部としてしか生きることができなくなり、個人としての「工夫」の力を次第に狭めてしまう…。人の世が「景色としてその深みを失って行く」という事でしょうか。伝統的社会と文明社会。夏目漱石自身、イギリスへの留学時代、近代化した社会の姿に大きなジレンマを、精神を病むほどに感じていたようです。

「個人が孤立し、ひどく無能になる」。これは、夏目漱石が講演で吐露した言葉なのでしょうけど、かなり身も蓋もない印象を受けます。時代は国を挙げての「西洋化」の真っただ中です。何故かここで、夏目漱石の「夢十夜」の「第一夜」を思い出してしまいます。「こんな夢を見た」で始まるその物語は、「腕組をして枕元に坐っていると、仰向に寝た女が、静かな声でもう死にますと云う」という出だしで始まり、「『百年はもう来ていたんだな』とこの時始めて気がついた」という言葉で終わります。興味のある方は読んでみてください。私はこの話に、勝手ながら、先ほど書いた「伝統的社会と文明社会」の間に漂う「地に足の着かない」浮遊感のようなものを感じてしまいます。要は自分自身への「懐古と懐疑、そして受け入れざるを得ない不合理」。

おそらく「個人が構造的に孤立」するのは、そこにある「不合理」故ではないかと思えるのです。たまたま目にした夏目漱石の話からそこまで大きく風呂敷を広げることもないのですけど、考えていたらそこに辿り着きました。現代社会とは「個人がどうしようもなく孤立し、無能となる」ことで成り立っているのでしょうか。

いやいや、そうは思いたくありません。「あえて孤立を恐れずに受け入れる」事で、もっと「奥行きのある景色」を目にできるのではないかと思う次第です。

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