思い その62「独裁を行う者がいるのか 人が独裁を望むのか」

って、前置きはさて置いて「独裁」なるものですけど、シーザーや皇帝ネロ、ナポレオンやヒトラーなどなど、細かいものまで論えばキリがありませんけど、これらは常に「英雄的」な物語とワンセットでその「独裁」への道筋が歴史のストーリーとして語られます。が、それは本人が「大きな志」のもとに艱難辛苦を乗り越えて駆け上がったところで得たものなのでしょうか。歴史劇場の中ではそのように語られることもありますよね。しかし、私はそれに懐疑的です。彼らは常に作られている存在で、分かりやすく言えば、多くの者の期待に応えて「独裁」の地位に昇った者たちでしょう。大体「独裁」なんて一人の人間に依りかからねばならないものが長く社会を維持できる訳がないのは当然でしょう。「お向かいの北の方の国は三代も続いている」と言われそうですが、あれは「国」ではなく「金さんち」ですから。兄弟サイトの「テキトー雑学堂」の「社会・政治 その32」にそのことを書きましたので、興味のある方はご覧ください。
では、なぜ「一発芸」的に歴史の中に独裁者が現れるのでしょうか。要因として、時代背景もあるでしょう。昔、大学で E.H.フロムの「自由からの逃走」を講義で知った時、確か「社会オリエンテーリング(方向を定めて走る)Orientierungslauf:独」なる言葉でナチズムを説明されたような記憶があるのですが、「自由からの逃走」にそのような記述はないようですね。「社会的性格」の様な表現はあったと思いますが。まあ、教授が説明のために使った造語かもしれませんけど、言わんとすることは理解できます。要は、社会の経済的疲弊、もしくはモラルの末期的状態、政治的混乱等、大多数の者が明確に共有できる危機意識・苦痛を背景として「独裁」は生まれるのでしょう。つまり、言葉を思い切り端折るような気がしますが「問題をある一人に押し付ける」のです。押し付けられた者が「独裁者」となります。エンガチョッ、ってな感じですな。一見「待望」という空気の中で。
この「押し付けてしまう」ということがどういうことなのか? これがフロムの言う「自由からの逃走」です。本来は、どういう状況にあろうとも、人は「自由」に考え、行動することができるのに、それを一人の人間に押し付けてしまうのです。先ほど「待望」と言いましたが、余談ですけど、ここのところ、ルソーの唱える「一般意思(人民の総体としての意思)」なるものが少々似ているので、彼の考えはナチズムに通じたと批判されることがあるようです。とんだ濡れ衣だとは思いますが。「全体主義」と「ルソーの政治思想」が違うのは、少し考えれば分かることです。
で、「独裁」ですが、これは超簡単に言えば「皆が考える面倒臭さから逃れるために」その「考える」ことを一人、もしくは特定の少数(党などの政治的・思想的集団)に委ねて(放り投げて)しまうところに起きてしまいます。この辺りはハンナ・アーレントがいうところの「思考の停止」と同質ですね。それがナチスの台頭・蛮行を許してしまった訳ですから。
つまり、「独裁者」というのはある意味「貧乏クジ」を引かされたような存在でもある訳です。私はそう考えます。皆が、歴史的成果である「責任ある自由:Liberty」を手放さなければ、「独裁」なるものは防げる筈なのです。が、そうはいかないところが問題で、それはけっこうなレベルの「教養」、もしくは断固たる経験的な「矜持」からしか生まれてこないもので、残念ながら多数が持ち得るものでもないでしょう。まあ、ルソーの「一般意思を政治的意思決定のコアとする」思想の最大の弱点はその辺りにあったと思います。ナチズムの方が楽だったのですよ、最初は。ただ、あんなことにまで至るとは、「停止した思考」では予測が付かなかったということです。
おそらく、これからもキナ臭い時代を迎えた時、それを背景として「独裁」なるものは何度でも生まれてくるでしょうね。残念ながら…。今がそのキナ臭い時代かも…。手放すともう何時手に入るか分からない「自由」をお持ちの方は、多少の不便な生活の中にあっても、皆がそれぞれにそれを、何があっても「面倒臭い」なんて思わずに、金庫の中にしまっておきましょう。「頼る」「委ねる」は容易に「依存」へと変貌しますよ。ご用心。
「思い徒然」編 目次へ
★不思議 その69「キリンの首は、ある日突然に伸びたのか… 中間のない進化?」」
★不思議 その31「水滴が…? どこから?」
★不思議 その27「人が壁をすり抜ける確率は? 電子のトンネル効果」
★不思議 その45「目を閉じているのに、何か見える…」
★不思議 その77「虫の知らせ それは特別な予知能力か、人の持つ自然な力か…」
■これからギターを始められる方のご参考にでもなれば。
