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思い その61「フリーランスという生き方の選択 諾否の自由」


考える 「死ぬくらいなら会社辞めれば ができない理由(ワケ)」というタイトルの本がけっこう話題になって売れているとか。読んではいませんが、新聞の書評の中でその「理由(ワケ)」とやらに「学習性無力感(がくしゅうせいむりょくかん:earned helplessness)」なるものがあるそうで…。私、一応教育学部出身なのですけど、そんな言葉を目にしたのは初めてなので、最近の言葉でしょうか…。って、調べてみたら、1967年(昭和42年)に提唱されていた説のようですから、最近のものではないようです。まあ、教育学部だからと言って「学習性」なるものをすべて対象として学ぶわけでもないのですけど、その言葉の組み合わせがどうにもシックリときません。「学習性」と言えば「能動的・自主的に、ある能力を獲得する」というニュアンスを強く感じるのですが、そのあとに続くのが「無力感」とは…。ポジとネガが一緒になったような。

英語の "earned" をテキトーに訳せば「獲得された」。で、"helplessness" は「無力」。これをくっ付けると「獲得された無力」ですか…。テキトーに訳しても、なんと奇妙な言葉になります。これを無茶苦茶簡単に言ってしまえば、動物実験で「自分では制御できない刺激(電気ショックとか)」を与え続けると、その動物が「何をやっても無駄」ということを学習して、刺激からの逃避行動を起こさなくなるという事。要するに「諦めて」しまうのでしょう。Wikipedia の解説を借りれば、イヌ、ネズミ、ネコ、サル、サカナでも同様の傾向が見て取れるようです。

で、人間ですが、当然、万物の霊長たる存在ですから、イヌ、ネコ、サカナにまで起きることが起きないわけありません。暴力や差別、監禁などに晒されたものは「そこから抜け出す努力」をしなくなるそうです。本当はちょっと頑張れば「抜け出す」ことが可能であっても「何をやっても無駄」ってな感情に満たされ、自発的な努力をしなくなるとか。この症状は「うつ病」と類似するものであって、どうやら同じモデルとして成立するようです。Wikipedia から下記のような記述を引用させていただきます。

「人の行動は、良かれ悪しかれ何らかの学習の成果として現れてくるものである、という学習理論を土台とした理論である。拉致監禁の被害者や長期の家庭内虐待の被害者、学校での人格否定やいじめ、会社などでのモラルハラスメントや、いわゆるブラック企業に雇用され低賃金で過酷な労働を強いられ続けながらも自ら進んで退職しない者が一定数居ることなど、行動の心理的根拠を説明する理論として、注目されている」。

教育学をカジッたものとして、こうした「理論?」は個人的に受け入れがたいものがあります。失礼な表現ですが、確かに「不幸の中でしか生きられない被害妄想的な強迫神経症(幸福だと不安になる)」のようなものが存在するのは経験的な事実ですが、それは、すべての者に起こり得ることでもありません。かなり、少数派というか、ある意味で「現実への適応」のようなものとも考えられます。つまり、「どうしようもない制御不能な運命」に対しての「折り合い」を付ける緊急避難策として。しかし、それが「うつ病」とかいった「精神病理」の側に行ったとすれば、確かに人間としての能動性は「病理」として失われるでしょうね。これは病気という、ある意味、確率的な事例(アクシデント)となります。

多くの人たちは、そんな「病理」の世界にいるのでしょうか。否、です。もしそんなことが高い確率で起こるとすれば、それは「個人」ではなく「社会」の構造・制度上の問題となります。確かにそうした「出来損ないの社会」を作ってしまっているのかもしれません。しかしまあ、そこをあまりにも深く考えすぎると、所詮はダークサイドですので(というより、学習しなくても無力感に襲われる事柄)、戦争とか、ミサイルが頭の上を飛び通っているわけではないという次元の話として考えてみれば、「学習的無力感」とは、言葉を持った人間にとって、その言葉が与える「病」として発症します。要するに、病院に行って病名を付けられたら病気になるといったようなものです。私は「無力感」を「学習する」などということは断じて肯定できません。病理としてあり得るなら、よくある「依存症」の領域です。

現状を変えるための「次」が無い状況に置かれてしまうから「辞めない」のです。確かにそれは錯覚として起き得るでしょう。しかし「個人」の世界においては常に「諾否の自由」があるわけで、つまり、「受けるも受けないも個人の自由」。それが奪われたとしたら、これは戦時下の社会と同じとなります。皆が鉄砲を持って死地に向かわざるを得ない…。拒むことは許されない。そこまではまだ行ってないでしょう、この日本の社会は。で、本サイトのあちこちに書いてきましたが、私の経験から言っても、「今の会社を辞めても、次が無い」、「やっと得た正社員の身分が」、もしくは「せっかく、一流企業に入ったのに辞めたら」とか、これはもう「依存」そのものです。「辞めることができない」のではなくて、「辞めた後のことがまるっきり描けない」のです。最近「定年後」をテーマにした書籍をけっこう目にしますが、まあ、同じようなものでしょう。「次」を描くことができない。

何故そうなってしまったのか? 理由は簡単です。「豊か」だったからです。「所属」することが「豊かさ」を約束し、それが「依存」へと変質していくのはさほど不思議でもありません。そうした風潮を変質させるのは「疑う」力しかないと考えます。で、今、多くの人が既成の「依存」に「疑い」を持ち始めていると思います。要は「会社」ですけど、かつては盤石に思えた存在が、「いつ無くなるか分からない」ものとなっているのは事実です。そうした「空気」が「社会」を健全な方向に修正してくれる可能性を感じています。皆が「個人」であることの復権を。そのキーワードは「フリーランス」です。まあ、分かりやすく言えば「自由業」、もしくは「プータロウ」でしょうけど、「生きる」ということにおいては「依存」ではなく、「選択」、つまり「自分本来の分(ぶん)にあった生き方の選択」を行う姿です。「生き方=価値観」と言ってもよいでしょう。

これ以上このテーマについて書くと「六尺褌」のように長々とした文章になりそうなので、ここでお子様にでも分かる結論を提示します。「フリーランス」として生きる選択を考えましょう。「諾否の自由」のないところに「生き方」などありません。で、「フリーランス」として生きる選択をしたら、何で飯を食っていくかという方法をまず考え始めます。何かを売るか、何かを作るか、体を動かすか等々。そこには「学習してまで得る無力感」などあり得ません。特別なことではないのです。「思考が停止した依存」こそが、「無力感を学習」させる苗床を作るのです。余談ですけど、不肖、私、フリーランスでン十年も飯を食い続けているオヤジです。何とかなるもんです。

ところで、会社の方も「ブラック」とか呼ばれるのは勝手としても、(仮に)社員に「無力感を学習」させたとして、それでどうなるのかね? なんか、人を支配するだけでは、早晩、潰れるでしょうなあ。経営者のあなたたちも、何かに「依存」している訳ですよ。「思考の停止」ね。

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