思い その57「どのような結果であれ、それは自分が選択したこと」

まあ、確かに「夢を見る」ということ自体が不思議なことですから、興味の対象外に置くという事には無理があるでしょう。事実私も「夢」をテーマの中に絡めて記事を書いていますから。で、今回はそうした個人的な考えを横に置いといて、自分が何度か見る夢の中でいつも感じてしまうことについて、で、「それはどうしてなのか?」ということを考えてみたいと思ます。
その「夢」とは、特別どうのこうのという事もなく、多くの人が見るようなものだと思います。簡単に言ってしまえば、「自分が、今とは違う別の人生を歩んでいる姿」です。まあ、一番多いパターンでは、私は瀬戸内海沿岸の某地方都市出身ですが、そこから東京の大学に進んでそのままこちらに居ついてしまいましたが、そうではなくて、もしそのままその生まれ故郷にいたとしたらどんな人生だったのでしょう? ってな「夢」をたまに見ます。内容は多少違っていますが、要は地元の大学に進み、卒業して地元で就職し、それなりに仕事をこなしてまあまあの評価を受けながら出世して、地元の女性と結婚して子供を作り、そこそこの人生などを送っていくというパターンです。どこにでもあるような、ホームドラマにもならないような人生です。
景色としては「幸せ」っぽいですよね。しかし、ある程度歳をとって、ろくでもない経験を積むと、そうした「当たり前のごくごくシンプルな平和な家庭」というのはなかなか成立しがたいという事をけっこう目にしてしまいます。「普通(この定義も難しい…)」ってやつはなかなかに成立させるのが難儀なのです。
で、そんな「夢」を見た時にいつも最後(醒め際)に思うことがあります。それは「つまんねえな…」。そうなんです。人は波風の立たない無風を願いながらも、それが続くと「つまらない」と思ってしまうものなのかもしれません。どこかで「(良くも悪くも)イベント」を期待して、時には自らそれを求めて波風を立ててしまうこともあり、これは否定できないのでは。私もそうです。なんとなく順調に行って、波風のない状況が続くと「つまらない」と感じ始めます。それが「自分を向上させる」とかって意識であれば良いのでしょうが、つまりは「現状に飽きてしまう」のでは…。先に書いた「夢」のパターンですが、そこで「某かの刺激を求めている」自分がいるのです。なんでそんな「夢」を見て、なんでそんな「反応」を毎度毎度してしまうのか、本当の所はよく分からないのですけど…。
理解できるとすれば、「人はつねに局面局面で『選択』をしながら生きている」ということで、つまりはそういった「夢」に出てくるような「生き方」を「選択」しなかった、という事実でしょうか。もちろん、自分が選択した通りに全て物事が進む人生なんて、それはなかなかあり得ないでしょう。アクシデントもあれば、計算違いも勘違いも思い込みも、生きる上では満載状態です。が、とどのつまり、自分の「選択」で生きているとは言えます。
で、無理やりにオチを付けようとするわけでもないのですが、ここのところは腑に落ちるのです。どれほどの「間違い」を経験しようとも、「今ある自分」は「自分の選択した方向」にあるもので、それは結果として「間違ったもの」ではないのでは…、と考えたくなるのです。アンラッキーや不幸に見舞われ、それを嘆くこともありますが、それさえも「自らの選択の延長にあるもの」とすれば、そこでの「選択」がまたあり、その方向に進んで…、さて、今後はどうなるんでしょうか…? 分かる訳はありませんけど、時たまに見る「夢」の中の想いで、「結局のところ、人は無意識のうちに最も良いと考える選択をしている」と思います。自分が「能動的」になれない「予定調和的」な生き方がどこかにベンチマークとしてあって、そうしたものを望まぬ自分が「自分の思う方向」を選択した「なれの果て」が今の自分なのでしょう。そこにあるのは「間違い」でも「失敗」でもなく、正真正銘の「結果」ですから、「受け入れる」べきという事なのか…。結果に対する「自己責任」なんて視野の狭いことは、全く別のことです。
ハイ、インパクトの薄い、オヤジチックな思考実験(てゆーか、ボヤッと思う事…)でした。
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