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思い その49「戦争犯罪 戦争責任 そして謝罪という欺瞞」


考える 少々過激なタイトルを掲げてしまいましたが、アメリカの大統領が広島を訪れ、その際、各方面から「謝罪」云々という言葉が出てくるたびに辟易とし、その自分自身の考えをここでまとめてみたいという思いに駆られてしまいました。そのきっかけとなったのは、過日の朝日新聞で目にした塩野七生のインタビュー記事です。「謝罪を求めぬ日本、大変に良い」。各方面から様々な反響があるようですが、結論から言えば、私個人はこの方の意見に100%同意します。「謝罪を求めて、どうする?」「謝罪されたら、どうする?」。そう思ってしまうのです。兄弟サイトの「テキトー雑学堂」で「歴史・地理その32『戦争は部分で語るものではなく 全体で語るべき絶対悪』」ということを書きましたが、その中で自分の考えをこのように述べました。「戦争に正しいも間違いもなく、加害も被害という区分も無く、責任などという形式的なものも無く、それは個別的な悲劇などでは語れない絶対的な悲劇であり、戦争は人類が共有すべき絶対的な悪」。

つまり、どこかに「悪」があって、それが戦争を始め、多大な犠牲を出した、というのは戦争というものに対する認識としてあまりにも幼稚であると思います。人間の歴史はお芝居のように「勧善懲悪」で動くものではありません。この同じ編の「思いその44『歴史という化け物に出会って沈黙した知性』」の中で、小林秀雄の言葉を借りました。あの大戦が、誰かの「無知・野心」「悪」から起こったのか、それがなければ起こらなかったのか。氏はそれを「無責任で安易な詮索」「おめでたい歴史観」とし、「僕は歴史の必然性というものをもっと恐ろしいものだと考えている」と述べています。

つまり、そこに「悪」「恐ろしい野心」が存在するのではなく、様々な、大きなものから小さなものまでが糾えるように絡み合い、誰もその行き着くところを知らないままに、望みもせぬ方向へと全てが動き出してしまうということでしょう。

原爆投下に関してアメリカ人が「戦争を早期に集結させ、アメリカ人の血が流れるのを防いだ」とする考えを正しい、間違いという議論の俎上に上げることができるでしょうか。その結果として、広島の一般市民が、「地獄」などという言葉さえ追いつかない苦しみを受けた責任が、アメリカにあると訴えたとしても、そのアメリカに原爆投下をさせた本当の犯人は誰なのかなど、これも議論の俎上には上がらないでしょう。それに対して「謝罪」を求めるのも、「謝罪」を黙殺するのも、どちらが正しいなどと誰に判断できるのでしょうか。お向かいの国は戦争犯罪者として常に「謝罪」を求め続けますが、それで一体、どうなるのでしょうか? 気が収まる…? であれば、永遠の謝罪要求と謝罪が必要となるではないですか。事実そうなっているように思えます。

謝罪という行為が一時的に政治パフォーマンスとなることはあるでしょう。しかし、歴史という、言ってみれば化け物の中で、それにどれほどの意味があるのか…。橋下徹の「僕は、戦争に関与していない現代の国民が過去を謝罪することは不要だと考える。しかし為政者には永久に謝罪の気持ちは持ってもらいたい。なぜならそれこそが戦争抑止のための重大な歯止めの一つになるからだ。為政者と国民を分ける」という言葉にも釈然としないものがあります。では、為政者というのはどこから現れたのか? 国民の中からではないのか? 国対国となるとき、それは為政者対為政者となるのでしょうか?

私は、非難の集中砲火を覚悟で、「そも歴史とは化け物であり、恐ろしい必然として戦争なるものをあらゆる場面で生み出し続ける。そこに謝罪なる道徳観に意味があるのなら、戦争など起こらなくなるはず。戦争責任や戦争犯罪などという司法的行為が成立するのなら、戦争など起こらなくなるはず」と考えます。「戦争」というものに、誰が誰に謝罪するのか? それを起こしたものを、明確に特定できるのか? 仮に、東京裁判のように、形式的に当時の為政者を戦犯として抹殺しても、それで戦争は歴史の中から永遠に消え去るのか?

論が循環し始めそうに思いますので、この辺りで区切りをつけたいと思います。私は原爆が投下された地で戦後に生まれました。私の周りには親族・知人の親、被爆された人が多くいました。しかし、その本当の心の内までは図れませんが、「アメリカが憎い! 謝罪しろ!」などという言葉を一度も聞いたことはありません。ただただ語るのは、あの原爆の「恐ろしさ」です。原爆の体験者から聞く話は、まだ子供の私に「とんでもなく怖いもの」というイメージを植え付けました。いまだに夢で見ることがあります。被爆された人が望んでいるのは「謝罪」などではなく、あの「地獄」が二度と起こらないことです。「核の廃絶」です。「謝罪」という人間らしい行為を軽んじているわけでは決してありません。しかし、そのような日常的な道徳観で、戦争なるものの本当の姿をとらえることができるのでしょうか。戦争を「歴史の絶対悪」として人類が共有せず、個別の悪や責任・加害者を探しているようでは、また戦争は何度でも起こるでしょう。

戦争が生み出した「核兵器」というものがもたらしたのは「人類の絶滅」という悪夢です。そこには人間的な感情も尊厳も全て存在し得ない「恐怖」と「絶望」があるのみです。感情で語る戦争は終わり、世界規模の「理性」の醸成に「人類の正気」を期待するしかないのだと思います。

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