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思い その38「家族は自動的に家族にはなれない 社会と同じ」


家族確か、あの三島由紀夫が「楯の会」を設立した1968年(昭和43年)以前のことだと記憶していますが、美輪明宏(当時は丸山明宏)との話でこんなことを言っていたようです。「いずれ日本をこのままにしておいたら、親が子を殺し、子が親を殺し、見ず知らずの者が見ず知らずの者を殺す世の中が来る」。正確な表現ではないかもしれませんが、確かこのような意味のことです。

ちなみに「楯の会」とは、当時の左翼革命勢力に対抗して結成された民族派の「民間戦闘集団」と云ったところでしょうか。「楯の会」の由来は万葉集の防人歌の「御楯」からきているとか。つまりは「国・天皇」を護る「楯」となる、という意味です。当時はまだロシアがソビエト連邦であり、「世界同時革命」という言葉が生きていた時代です。

先の三島由紀夫の言葉は学生時代に何かの本で読んだ言葉です。何故、この言葉を引用したかと云えば、事実、今の世の中がそのようになっているからです。毎日の新聞にこのような記事は飽きるほどに(不謹慎、失礼)載っています。三島由紀夫が(命を賭けて)目指していた世の中の姿は今や想像するしかないのですが、おそらくは「伝統的権威、古典的権威」、そういったものを美意識の核とした世界だったのではと感じます。

つまり、三島由紀夫はそういった「世の中の中核にある権威」なるものが失われることに相当な危機感を抱いていたのではないかと思われます。その権威とは、「規範」や「道徳」と云ったもののバックボーン、今なら「マナー」とか「エチケット」とかいった方がいいのかもしれませんが、人と人とを安定してつなぎとめる、「国家、社会」の核となるものなのでしょう。

美輪明弘はその三島由紀夫の言葉を回想し、こう続けていたと記憶しています。「ほうらごらん。三島が云った通りの世の中になったじゃない」。

で、タイトルに掲げた本題に入ります。国家も社会も、地域も、それらの最小単位である「家族」も果たして「地縁・血縁」のようなもので自動的にできるものでしょうか。遥か昔の石器時代はそうだったかもしれません。その理由は「助け合い、生きるため」という明確な目的があったからというのが理由です。では、時代が進んでもその原理は生き続けているでしょうか? 三島由紀夫と美輪明弘の言葉を素直に聞けば、「いつどこで」は分かりませんが「既に失われている」と考えざるを得ません。「親が子を殺し、子が親を殺し、見ず知らずの者が見ず知らずの者を殺す世の中」というものが何故にやってきたのか、という事を考えるに、それを「自動的に防いで来てくれた」ものを失ったからでしょう。

それは「伝統的」に皆が共有していた「権威(補足説明※37)」なるものでしょう。そうした「求心力」を失った時、世の中はどうなるのでしょうか? それまでは「自動的」に作り上げられていた様々な「関係性」を、各人が個々の選択と努力によって作らなければならなくなるでしょう。社会の最小構成単位である「家族」というものを例に挙げれば、四人家族の場合、「各人が一対三の関係」を持ちます。お父さんは「妻と、二人の子供」、お母さんは「夫と、二人の子供」、子供は「父親と母親と兄弟」というように、それぞれに違った「関係性」を作っていかなければならないでしょう。

今や、「家族」という言葉で一括りにされてきた単位が「個人」にまで分解されていると考えます。「社会」もしかり。「国家」なるものの下で自動的に成立していた「地方」は疲弊し、消滅するものまであります。「寡占」「格差」「集中」、どのような言葉で語ろうとも、それは「かつての社会」が変貌してしまったことを意味すると考えます。

個人と個人の関係となれば、そこには本来的には何の条件も付かず「血のつながり」も「他人」も
同じようなものとなるのではないかと考えます。関係性はお互いによってしか作り得ません。

では、三島由紀夫の云う「かつての社会」には強固な関係性が自動的に生まれていたのでしょうか。おそらくそうでしょう。それは「生きていくために必要」だったからです。もちろん「行きずり殺人」も「親殺し・子殺し」など、歴史を見ればいくらでもあったことが分かります。しかし、それは「特異」であり、例外が無いものなどあり得ません。俯瞰すれば「国家・地方・地域等の社会と家族」は自動的に成立していたでしょう。

これは陳腐な仮説ですけど、都市という「集中」が生まれた時、地方から人が動き、まず地方が壊れ始め、同時に社会全体の関係性が希薄化し、集中の先である都市には「個人」が集まり、極めて複雑な人間関係が生じ、社会はその「個人の集合体」という事になります。とすれば、家族という単位は、それが成り立つための地域という社会の無い所に漂わざるを得ない、との考えに至ります。

別に、それが「悲劇的」なことであると思っているわけではありません。つまりは、「個人」があまりにも多くの事を突き付けられはしますが、予定調和的なものはその殆どが意味を失い、明確な「主張」と「考え」「あるべき姿」をもった「個」が求められているということになるのだと考えます。

そこに「進化」なる言葉を持ち出すのはまさに予定調和なのですが、少なくとも、個人個人が確たるものを持たなければならなくなっているのは事実でしょう。となれば、もはやその「個」は三つくらいに分かれるのでは。「向上し、支配する者」「支配された中でうまく生きていく者」「疎外される者&自ら疎外を選ぶ者」。

さて、遥か昔から(おそらく)最後の拠り所であった「家族」(もしくは地域)が自動的に作られなくなった社会では、個人が身につけなければならないものが新たにワラワラと出て来るでしょう。コミュニケーション力? 体力(=健康)? 見た目? スキル? キリがありませんが、それらが全て「商品」となって、盛んに喧伝されているのが現実です。

私ですか? 私はやはり「家族」を拠り所にすることに力を注ぎます。オヤジですから。

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