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怖い その74「生きていればいずれは死ぬ 死は不治の病か宿痾か…」


死生観 イメージこのテーマは続編のようなもので、以前に本編の「その69」で考えてみたことですが、その時は「寿命 最期を迎える時 そこにある想いは…」というテーマを掲げて、「多分スベるだろうな…」と思いつつ書いてみました。そのキッカケは、あるケアマネージャーの方から聞いた「身体が不自由になって寝たきり状態になった時、死ぬってことを意識し始めると、すごく怖いみたい」という言葉からなのですが、頭の中で「何故、怖いのか、そんな感情が湧くのか…」って、子供みたいな疑問が湧いてきて、破綻覚悟で考えてみましたが、あれこれ考えて、その時は「そもそもが怖いという感情は、自分の命故のもの」ってな、やや予定調和的な結論にまでしか到達できませんでしたが、さて、今回は…。

で、凝りもせずにまたまた、「死」という、万古の昔から数多のインテリジェンスが向かい合ってきたテーマに「普通の頭」で挑んでみたいと思ったのは、たまたま、「生きている人が死のイメージに怯える」事実と、「自ら命を絶つ人(つまり自死、自殺)」がいる事実とが妙に「世の中、そんなものだよ」という問題一時回避的なことで丸め込めなくなってしまったからです。考え始めたら、これほどに倒錯した感情を人は常にその身の内に持っている訳で、二つに分かれるのではなく、どちらに行ってしまうかは分からないという事が「怖い」という感情として自身の中でザワついてきたからです。「どうにも無視できない事」と「どーでもいい事」は紙一重でして…。

ある作家の話ですが、その方は子供のころから「死」というものに怯えていたと言います。死んでも実は意識がしばらく自分の中にあって、その状態でお棺に入って焼かれてしまう時の恐怖…。もしくは、生き埋めになったり溺れたりして死を迎えた時、自分の体がジワジワ腐り始めていく事を想像したときの恐怖…。随分と感受性の強いお子様だったのでしょう。そう言われれば、私も、「焼け死ぬ」「生き埋め」「溺れ死ぬ」という事には非常に「怖い」思いを持っていました。子供ゆえに、そうしたイメージを現実の中で払拭する力がまだ弱かったのでしょう。そうした経験をお持ちの方は少なくないように思います。

「死」を「怖い」と思う気持ちは、それから逃れようとする、いってみれば「生きる力・生命力」へとつながるものでもあると思います。「死にたくないから、必死で生きる」。それが人の自然な姿だと思います。…が、その真逆が存在します。前述した「自死、自殺」です。「生きるのが辛くて、死んでしまう」。その時に向き合う「自分の死」とは「怖い」とか恐れなどとは全く無縁なのでしょうか。最近はソーシャルネットワーク(SNS)上で、「自殺願望」「死にたい」といった言葉が少なからず見かけられるとか…。その結果、実際に死んでしまう人が出てきたり、その「お手伝い(殺人幇助:さつじんほうじょ)」をするような輩まで現れてきているようで…。この景色を、「生きようとする人」「死のうとする人」が同じ景色の中に同じように存在するという奇妙さをどのように捉えればいいのでしょうか。その両者を「統合(?)」できるような考えは…。

おそらく、様々な生物の中で「死」というものを観念として捉えるのは人間だけだと思います。猫にあったとしても、聞くことはできませんし…。で、その「死」を、知能の発達の末に「発見」してしまった人間は「宗教なるもの」を発明しますが、その辺りの事は兄弟サイト「テキトー雑学堂」の「人文・思想 その25」に書きましたので、興味がおありの方は是非ご覧ください。「死」を発見してしまった人間は、様々にその「死」と折り合いをつけようとします。「宗教」の発明だけではなく、「医療」の発達もそうでしょう。しかし、どうであれ、「不老不死」は伝説なりなんなりとして人を惹きつけはしますが、人はいずれ死ぬ、という「不治の病、宿痾」を誰もが抱えています。それが数秒の場合もあれば、百年を超えて迎える場合もあります。

では、「死」とは間違いなく「苦しく、辛く、怖い」ものなのでしょうか? 多くの人を看取ってきた医者の言葉ですが、その死を迎える時に、「悶絶したような表情を見せた人はいない」とか。みな、穏やかな表情で逝くと言われます。また、あるアメリカの心理学者が「臨死」体験について調べた中で、「痛みの消失」という共通点を挙げています。また「気持ちが休まる」といった体験もあるようです。みな「自分の死」は自覚しているようです。そのほかにも、「光を感じる」とか「暗闇に入る」「離脱感」といった何某かのイメージを伴うという共通点もあるようです。こうした体験を語る方の殆どは医療機関で臨死体験をされており、自殺から息を吹き返した場合の報告は見当たりませんけど。自殺の場合も、同じなのでしょうか?

「厭離穢土 欣求浄土 :おんり(or えんり)えど ごんぐじょうど)」という言葉があります。平安時代中期の往生要集(おうじょうようしゅう)にある言葉のようで、穢れたこの世を離れて、仏の世界である浄土へ向かいたいという事です。徳川家康の旗印としても有名です。これは戦国の世の事ですから「世が乱れて穢れている」訳ですので、常にそんな「この世」がある訳ではないでしょう。しかし、個人個人それぞれにその世がどのような世であるのかは、分かりません。ただ、「浄土」とは、パラダイス、楽園であり、それは全ての人にとってハッピーな世界でしょう。もしそれが、全ての「死」の後にあるのなら、人は最終的にはみなハッピーという事です。が、私はこうした「死後の世界観(極楽 or 地獄)」というものは信じませんし、この世とあの世といった二元的、もしくは二分法的な考えは好みません。「選択」しかない単純すぎる世界観だと思えますので。

ですが、先ほどの拙い疑問の答えがこの辺にありそうな気がするのです。「死にたくないから、必死で生きる」人も、「生きるのが辛くて、死んでしまう」人も、そこには「この世とあの世」のような二元的世界があって、つまりは「選択」です。「どちらが辛いか、どちらが楽か」…。「生」と「死」が選択になってしまう…。しかし「死」は選択などの対象ではなく、自然に訪れるべきものです。その瞬間がどのようなものであるのかは「臨死体験」なるものから想像してもよいのですが、どうせ間違いなく来ますからその時に分かります。で、そこには「苦」も「楽」も無いと真剣に考えています。極論を言います。もし、この宇宙から全ての人間(宇宙人も?)が死んだとして、それで「生命」が0になるのなら、「生命」を生み出したこの宇宙は「意味のないことをした」のでしょうか。私も、「生命」は宇宙の中にあるエネルギーで、それは宇宙がある限り継続していくと、これまた、真剣に考えています。

まあ、「輪廻転生」についてはあちこちで書いていますけど、「この世」が「苦」だろうが「楽」だろうが、あの世が同じようなものだろうが、それは人が考える「生」と「死」に対する「怖さ」から生まれるもので、現実にはそんな感情とか個体とは関係なく、エネルギーの連鎖のようなものとしてつながっていくのではないでしょうか。

この宇宙に無意味なものがあるとすれば、それは宇宙自身が無意味なものとなるでしょう。そうとは全く思えません。宇宙が生み出した「人」の「生死」は「位相・状態」として、進化を続けて、どこかに行くのでしょう。その時に「苦」も「楽」も、感情としてまだ漂っているのでしょうか。

ハイ、やっぱり、大スベりしました。最近多くて…。

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