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怖い その72「殺す人たち 人を、生き物を 彼らは何者…」


陰陽勾玉巴唐突ながら、私はものを「書く」ことが好きです。子供のころから。皆が苦手と言っていた読書感想文や作文などは嬉々として書き綴っていました。物書きに憧れていたわけではないのですが、商業誌へ趣味で投稿を続け、いくつか入賞し、お金をもらって原稿を書いていた時期もあります。しかし、お金をもらうと「制約」が多すぎて、数年で止めてしまいましたが。どうせ出版社で自由にものを書けないのなら、もともと馴染みのある広告代理店で企画書や資料などをまとめていればそれなりに食ってはいけますので、専らそちらで長くフリーランスの環境で仕事をしていました。

で、いまだにものを書くのは好き、というよりこうしたサイトのように、生活の一部のようになっていますけど、その「もの書き好き」が、どうにも「書く」ことが出来なくなる事があります。別にプロではありませんから、好きなものを書いているのですけど、それでも書くのが、何というか億劫なような、楽しくもなんともなくなるような時があります。それは、単純なのですけど、あまりに「暗い、陰惨、やりきれない」ニュースなどに触れ続けた時です。頭の中に冷たく溶けた鉛を流し込まれたような感じになって、キーボードを叩く(昔は、筆を取る)気にもならなくなってしまいます。

まあ、ハッピーなニュースばかりが流れる時など無いと言えば無いし、いずれにしても何ともやりきれない思いになるニュースには年中触れざるを得ないのですけど、ここのところ、オヤジの感傷癖なのか、やたらと陰惨なニュースばかりが頭の中に染み込んできます。一応、無視しようと抵抗はするのですけれど…。例えば、猫の首や足を切ったり殺したりする場面を動画でWEBに晒したり、施設などで何の落ち度もなく、抵抗する術もない人たちを無差別に殺したり、子供を殺したり、公然と「人を殺してみたかった」と吐き気を覚えるような事を平然と口にする輩がいるらしいことをニュースで知ったり、自分の子供を殺す親がいたり…。気分が重くなってきます。もっとも、そうした事が全く起きない世の中は無いでしょうけど、どうにも「多く」なってきているように感じます。

以前、この編の「その57」に「猫を殺す者たち 命に対しての畏れ無き痩せた心…」というタイトルの記事を書きましたが、その中で「猫とはいえ『命』を畏れもせずに軽視するその痩せた心が、もし人に向かった時…、などと考えると怖気で吐きそうな思いになります」と書いたのですけど、今は吐き気など通り越して、全ての思考を止めてしまいたいような気分になります。なぜそのような事が起きるのか…。考えて答えが出るようなことではないでしょうけど、少なくとも、例えば「自殺(今では自死?)」について考える時、このサイトの「補足説明※34」で「エロスとタナトス」という概念を用い、「エロス=生きようとする力」、「タナトス=自己破壊欲求」として、この両者は凹凸のようにワンセットであり、違う形でどこかに書いたかもしれませんけど、この両者、即ち「自殺と他殺」は同じような位相に在るもの、という考えを私は持っています。極力簡単に言えば「自殺とは、目の前の世界から自分を消してしまう事」、「他殺とは、目の前の世界から相手を消してしまう事」。両者は「対称」であり、何かの「(量子物理学でいうところの)ゆらぎ」でそれが破れ、人をどちらかの方向に動かすものであると思います。幸い、大多数の中で、その平衡状態がかなり強く安定しているようです。

余談ですが、これらは一個の人間の中に「対」で在り、他者に対して向かうものではありません。しかし、「破壊欲求」が他者(人間や他の生き物、つまりは他の命)に向かう時、その「自己」とは一体何と「対称性」を持っているのでしょう。世の中は全て、「二つ巴(ふたつともえ)」もしくは「陰陽勾玉巴(いんようまがたまともえ)」のように凹凸でワンセットになっていると思います。テキトー過ぎる例かもしれませんけど、「物質&反物質」も同じでしょう。「無」から何かが生まれれば、それが出てきたのと等価等量の「反」が生まれ、両者が接触すればもとの「無」に戻る。それが万物の、鉄板の理だと考えます。

改めて考えます。「他者の命を奪う者」が持つ、その行為と対称性を持つものは何なのでしょうか? 「破壊」であれば「創造」でしょうか。しかし、それは「神」の御業としか言えないものです。「破壊」された命は元に戻ることなく、「殺す人」はまた次を殺します。どこかの宗教のように「一殺多生」などは邪教の戯言であり、「宗教とは人を生かし、その命の在処を教えるもの」であるはずが「人を殺すもの」に落ちぶれた時、「創造」する力を持たぬ「神」が現れるのでしょうか。それを何と呼べばいいのでしょうか…。「悪魔」「魔王」…。予定調和的に言えばそんなものかもしれません。しかし、「他者の命を奪う」こととの対称が、やはりそこにはありません。「悪魔」や「魔王」は人が創った「破壊」の象徴でしょうから、それは片側だけの概念で対称性は「神」が引き受けるのでしょう。同じように、社会として広く捉え、そこに「人を殺める者」と「人を救う者」がいる、という事で対称性を見ることはできるのでしょうけど、社会ではなく「一個の人間」として「殺す」こととの対称性を見つけることができません。

もしかしたら、「殺す人たち」は生物的に人の形をしてはいますが、「人ではない」のかもしれません。これは仮説なんてものじゃなく、ほぼほぼ確信めいたものなのですけど、ここで、それが予定調和的であろうとも、表現として手垢が付いていようと、まさしく「魂」の抜けた「人の姿」をしたものが、「魂」をもつ「人、命」に惹かれ、それを弄ぼうとするのではないでしょうか。では…、対称性を持たぬそのアンバランスな姿とは…。

「殺す人たち」の本質は、「動く死体」ではないか…。ゾンビとやらは生者に襲い掛かります。「死」しか持たぬ者は、他者の「生」という対称性に惹かれていく…。そして…。

どこまで書いても、腹の冷える重い重い、暗い暗い、やりきれない話にしかなりません。

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