怖い その69「寿命 最期を迎える時 そこにある想いは…」

その言葉とは、家人がケアマネージャーの方と話をしていた時の話題として出たものなのですが、「やっぱり、みんな歳を取って身体が不自由になって寝たきり状態になった時、死ぬってことを意識し始めると、すごく怖いみたい」とか…。言葉自体、まあ、そのマンマなので特段、ハッとするような事も無いのですが、おそらく、自分もある程度歳を取り、自分と家人それぞれに親を送った後故に、考え始めることなのでしょう。「何を…?」って、次は自分の寿命、即ち「死」についてです。もちろん、1日24時間、ズッとそのことばかりを考えている訳ではありませんが、ふと何かにつけ、考える機会は増えました。
「やっぱり、怖いのか…」、「そりゃそうだよな」ってまだ、自分に押し迫った事として考えるという訳ではないのですけど、それまで何となく、「不慮の事故死や、病気などで死ぬ場合と違って、天寿を全うする時は…」なんて予定調和的に「それは、お迎えであり穏やかに消え行く火の様なものでは…」と、ある意味無責任に考えていましたが、どうも違うような…。老衰の場合、最期は意識が無くなる(医者の言い方ですと、意識レベルの低下、だそうです)ので、怖さなど感じることはおそらく無いように思えるのですが、そこはあくまでも外から見ての観察者的な想像でしかなく、本人の感じている世界までは当然ながら分かりません。もしかしたら、自分の親も家人の親もそうでしたが、その意識の消失故に、「穏やかな最期…」なんて勝手に自分たちが感じているだけかも、です。
既に彼岸に向かう時の意識(外とのやり取りは無理な段階)はどのようなものなのでしょう。いずれは自分も知る事になるのですが、今は想像するしかありません。やはり、「怖い」ままなのでしょうか。とすれば、人はみな「怖い」中で、一人逝くように宿命付けられているのでしょうか。それを考えると、何とも、今の段階で皮膚に張り付いてくるような「怖さ」を覚えてしまいます。どうにも、救いのないような気に…。
で、そうであるならばそうであるとして、今少し踏み込んで、「では何故、最後まで『怖い』という感情の中で死を迎えなければならないのか。もうそれは、逃げようもなく決められている事なのか」、そんなことを考えていると、畢竟、「怖いという事が、生きる事にどのような意味を持っているのか」という疑問に行き着きます。それなりに頭の中でアチコチに思いを巡らせていると、こんな答え(?)が出てきました。当然、それが答えなどというものではないのですけど…。
それは「『怖い』というものは、『生きよう、生きたい』とする人間の力、思いの原動力では…」というものです。よく、やたらに「臆病」で、惚れ惚れするほどの「怖がり」がいます。私、その傾向が強いかな…。一見、すぐに逃げ腰になり、物事に臆しやすいように見えますが、実はそれ、「生きるという事=命」に対して、猛烈に敏感で、「生きるという本能」を人一倍強く持っているという事ではないでしょうか。そんな考えに至ります。ただ、それは「一個人の生きる力の強さ」ということでポジティブにだけ見るべきものではなく、「他者に対する排撃」というネガティブな側面も強く持っているような気がします。時には「自分さえ…」といった所にも行ってしまうような。
うーん、「生きる」という上ではそうした事をただ悪であると非難もできないような気がします。「個人が生きることを正義とすれば、他者との関係は…、社会は…」。悩ましい…。ハイ、やはり「答え」と思ったようなものから、また、新たな「疑問」が「再生産」されていきます。まあ、そんなに簡単に「分かった!」なんて言えるものではないですから。分かったら、学者か坊主にでもなっているのかな…。
ほぼ、完全空中分解状態ですけど、自分もある程度の歳になって、この「寿命」なるものが皮膚感覚で次第に感じられるようになれば、いずれまた何度でも考え始めるのでしょうね。ただ、今初めて感じた事ととして、「人が持つ『怖い』という感情を考えた時、それは根源的に『=生きている、命そのものの働き』ではなかろうか…」という思いがあります。
「だから、どうした…」って…? どうもしませんよ。「怖い」ってものに人が惹きつけられるのは、やはりそれが「自らの命」と関わっているから、って当たり前の事を改めて思っただけです。やっぱり、思索的には墜落しましたね。テーマが重すぎて、頭痛が…。
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