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怖い その66「怖い絵展が人気 そもそも人の世は残酷で怖いもの」


怖い絵過日の某朝日新聞の記事に「3時間待ちの大行列『怖い絵展』なぜ人気」という記事がありました。東京で行われている「怖い絵展」に連日のように大行列ができているそうです。「なぜ人気」などといったタイトルが「取って付けた感」のある言葉のように感じます。人は「恐いもの・怖いもの」が好きなのです。特に「怖いもの」が。簡単に「恐いもの」と「怖いもの」との違いを言うとすれば、「恐い」とは「自分に危害が及ぶのではないかと、そこに覚える(恐ろしい)感情」、つまり比較的「物理的」な世界のもので、「怖い」は「対象が何であるか訳の分からないものであり、そこに覚える(怖ろしい)感情」、つまり「精神的」な世界のものでしょう。もっとも、言葉としての用途は同じ「こわい」ですけど。

このサイトの「怖い」編「その26」に「地獄絵図」のこと、「その36」に「怖い絵本」の事を書きましたが、もともと人は「怖い」ものに対して惹きつけられるのです。まあ、「怖い(恐い)もの見たさ」なんて言葉もありますし。子供はそもそも好奇心の塊で何にでも興味を示しますが、「怖いもの」という訳の分からないものにはなおさらでしょう。特に、感受性の強い子供はそこに自らの想像を加え、余計に怖がり、余計に関心を示すでは。この「感受性が強い」というのは「=想像力が強い」ということでもあり、要は「怖がりの子供」です。怖がりの子供とは「感受性と想像力」が強く、「人に見えないもの(感じられないもの)が見えてしまう子供」です。まあ、子供はみな怖がりかもしれませんけど、私は子供の頃、自慢したいくらいの怖がりでした。しかし、大人になるにつれ、妙な分別を身に着け、かつて覚えた「見えぬものへの怖さ」を忘れていくのでしょうかね。それは「=感受性の鈍化」のような…。

「地獄絵図」は今でも新聞で広告を見かけますので、ブームというより、これはロングセラーの様なものでしょう。そのオドロオドロしさは、不謹慎ながらもう芸術品というか見事な美術作品です。その元が仏教的教義から来ているとしても(しかし、お釈迦様は地獄なんて説いていたのかな?)、確かに、そんな所に行きたいなんて人はいないでしょう。といって、地獄恐さに皆さん、「善行を積む」かといえば、そうでもないような…。人にとって「怖いもの」とは、「それはそれ、これはこれ」ってな事で、現実とは分けているのでしょう。現実にそれは「あり得ない」ことなので、キャーキャーと楽しめる、と。でも本当にそうでしょうかね…。

この「怖い絵展」に出品されているものには「血が飛び散るようなグロテスク」なものは殆ど無いそうです。一見しただけでは何故怖いの分からない作品が多いそうで、その絵が描かれた背景を聞いて初めて「怖い」と感じるのだそうです。例えば、目隠しをされたドレス姿の少女が、手を差し伸べている絵があるそうですが、確かにそれだけでは何が「怖い」のか、分からないでしょうね。で、「これは少女が斬首される直前に、断頭台を手探りしている様子を描いたもの」という説明を聞いて、初めてその絵を見る者は「怖い」と感じるのだそうです。想像力が発動したとたんに「怖くなる」のでしょうね。ハイ、「怖さ」とは想像力の産物なのです。企画の元となった「怖い絵」の著者にも似たような考えが見受けられますね。「絵は感じなさい、という美術教育のあり方に疑問を持っていた」とか。そこに「背景」という物語、想像を刺激する気体に包まれてこそ、その世界を身の内に取り込むことができるという事でしょう。

その辺りは同感です。「怖さ」とは揮発性のある感情であり、平面的なものではないと思います。ましてや、オートマチックなものでもないし、「地獄」などもなぜそのようなものが、という解説によって人の情、感受性が働き、「怖い」ものへと変化していくのではないでしょうか(まあ、あれは見ただけで怖いけど…)。「怖さ」の元にあるものは「分からない」という事だと思っています。故に、見通しの効かない「暗闇」を人は怖れ、その怖れとは「畏れ」に通じる「畏敬」をも含んだ「人の精神の業」であると考えます。余談ですが、最近では家の中にしても街の中にしても、人が生活する空間に「暗闇」が少なくなり、どこも明るくなっています。「怖れ」から逃れるためなのでしょう。しかし、それは前述した「感受性の鈍化」へとつながっていくような気がします。

そもそも、なぜ「怖い」という感情を人が持っているのか? 「地獄」という概念もそうですけど。それは「もともとこの世は残酷で怖いもの」であるという証左(しょうさ=証拠:ちなみに左には証拠という意味があります)なのでしょう。大ヒットした「進撃の巨人」で、ミカサ・アッカーマンが自らの身体能力を覚醒させる時に「もともとこの世は残酷だ」と感じるシーンがありますが、まさに。人の豊穣な宴には植物・動物の「切り刻まれ」「焼かれ」た死体が山盛りなのです。生きるためには仕方がない、とは確かにその通り。しかし、その「仕方がない」の前に「残酷」が転がっているのです。

で、余談であるかもしれませんけど、この「怖い絵」は異例の大ヒットで、「『怖い』がテーマパーク的な要素となって人を惹きつけているのではないか」とか、「(人には)自分が傷つけられる心配がない場合、恐怖を与える刺激物にあえて近づこうとする心理が生まれる」とか、「怖い絵」の著者が言う「人は愛がなくても生きていけるが、生物として恐怖心が無いと生きていけない」とかっていうのは、新聞の記事だけでどうのこうのとは言えませんけど、興醒めこの上なし。

そもそも、人の脳の中には俗に「トカゲの脳」と呼ばれる太古の「原始的な脳」がその中核に残っており、その中には「生存」に必要なありとあらゆる「記憶」が残っていると思っています。「命」にとって「生存」とは「=他の命を奪う事」であり、食物連鎖のモデルの通り、そこには「命の体液」が飛散する景色が常にあり、進化の果てに「知能」を持った人間がその景色に「残酷」との形容を行い、それを嘆きますが、現実には更なる「残酷」が歴史を作り上げ、果てることなどあり得ないその世界の中に生きている自分たちをいかに認識すべきなのか、答えのないままに生死を繰り返しています。当然、それを「見たくない者」「見ざるを得ない者」それぞれでしょうが、「怖い」世界に自ら浸るのは、それが自分たちの常態であることを知っているからです。ちなみに、「愛」とは、残酷な世界にある唯一の「中和剤(である可能性を持つもの)」。それは「祈り」という形で現れると思います。

「残酷」なるものに対して「安全なポジション」があるなどは錯覚です。自らの脳が自らを騙して…。どれほど穏やかな景色の前にあろうとも、われわれが住んでいる世界は「残酷」なのです。逃げる方法などはありません。「怖い」ものに人が寄せ付けられるのは、そんな世界に生きていることを再確認するためであると思います。

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