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怖い その59「南の海を風の如く流れる唄に込められた意味… 島唄」


島唄 南の島私自身は戦後世代です。出身は瀬戸内海沿岸の某地方都市で、歴史上、類のない高音と炎に焼かれ、閃光と天空へ駆け上る巨大な雲の下で「地獄」などとの表現も追いつかぬ、人と人が永遠にその愚かさを呪うような人為的惨禍を経験した地域で、その惨禍の十数年後に生まれました。子供のころには、もう町は相当に復興し、そのような惨禍の痕跡は一見、消えてしまったような景色に見えましたが、まだ残ってはいました。例えば墓地ですが、粉々に砕け散った墓石をコンクリートで固めなおした墓石と、そうではない墓石とが混在していました。あの日を境に分かれたものです。私が親に連れられて参った墓は、砕けた墓石を父親がコンクリートでつなぎ合わせた墓です。その墓石は西南の方向に100mくらい飛ばされていたのを拾い集めてつなぎ合わせた、と聞かされています。周りにも同様に、中には半分近くが無くなっているものもありました。自分の父親も含め、皆はどういう思いでその墓石を探し周り、つなぎ合わせたのでしょうか。

原爆です。子供のころにはその時の話をよく大人から聞かされました。正直、未だにその話から子供が頭に描いたイメージと、その後に記録写真・フィルムで見たものとが重なって、夢に見ることがあります。閃光に焼かれる自分の肉体です。恐怖などという感情など追いつきません。恐い、そして怖い…。歳を取ってもそのイメージは消えません。祖父の背中は一面ケロイドでした。正直、一緒にお風呂に入る時、怖かった…。戦争がどれほど人の愚かさを証明しているか、進歩も進化も何もしていないことを表し、その申し子が科学であり、一部の人間が享受する「経済的豊かさ」でしかないことを未だに理解できないサルの末裔は、同じことを嬉々として繰り返しています。

焼かれた側の人の声から「被害者意識」など聞こえず、事実私は子供のころに大人から地獄の種を落とした国に対する「恨み」「憎しみ」を聞いた記憶がありません。その本当の心の内は分かりませんが、そこには戦争そのものに対する虚無感があったのではないかと思います。「思い出したくもない…、もう二度と見たくもない… 忘れたい…」。

その想いの残滓がいきなり巻き上げられたことがあります。正直、知らなかったのですが、あの1990年代にヒットした「島唄」には、沖縄の想いが込められていたことをWEBの情報で最近知りました。私はかつて沖縄には仕事で毎年数回は行っていました。ですから、あの海の景色を懐かしくも思います。その南の海と風をイメージする中で「島唄」の旋律は心地よく、好きな曲でしたが、その歌詞にどのような意味が込められているのかなど、考えることもありません。冒頭の「でいごの花が咲き 風を呼び 嵐が来た♪」に「でいごの花が咲く頃、米軍の沖縄攻撃が開始された」という意味が込められていたとは…。以下「でいごが咲き乱れ 風を呼び 嵐が来た♪」に「でいごの花が咲き誇る初夏になっても、米軍の沖縄攻撃は続いている」。そして「島唄よ 風にのり 鳥と共に 海を渡れ♪」には「島唄よ、風に乗せて、沖縄の悲しみを本土に届けてほしい」とあります。歌詞と、そこに込められた想いの文脈…。景色が変わりました。

「島唄 本当の意味(裏歌詞付)」を、島唄に込められた意味の参考として、WEBに掲載されている動画を拝聴・拝見させていただきました。

そこには、ありったけの「地獄」を沖縄にもたらした米軍と、それを救おうともしない日本(本土)への、推し量りようもないほどにやり切れぬ「恨み」があるのでしょう。しかし、その「恨み」は「願いの唄」となって南の海の風と一緒に東へ、いえ、世界中に向かって吹いているのだと思います。よく、沖縄は日本本土防衛のための「捨て石」になったと言われます。そして、地獄をもたらした「米国」も日本により何万人もの死傷者を出しています。彼らとて「日本」が憎いでしょう。その恨みが「日本」である沖縄の地にありったけの地獄を持ち込みます。そして、その沖縄を捨て石とした「日本本土」には、もはや形容する言葉などない閃光が二度放たれ、「人間の尊厳」など、微塵も顧みることなく焼き尽くします。その数は…。

日本が作戦上、沖縄を「捨て石」にしたという事に対しては様々な議論があると思いますが、その表現が妥当かどうかは難しい問題ですけど、当時の軍部内ではその表現が取られていた形跡があり、沖縄を「犠牲」にして救わなかった、ということは事実です。

戦争に関しては、何をどう書こうが、書けば書くほど「人」のどうしようもないバカさ加減と、人の存在意義などあり得るのかという懐疑が浮かび上がってきます。何のために殺しあうのか、それに何の意味があるのか、あるのは「恐怖」であり、「恐い」、そして「怖い」だけの想いを残し、しかしまた、起こる。あの、原爆慰霊碑の詩、「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」の「過ち」の主語について、ある意味「くだらぬ」議論がありますが、そこに明記すべき主語は要らないのです。間違いなく「人」ですから。戦争責任? 戦犯? いずれもくだらぬ無意味な言葉です。それは私も含めた「人」すべてに背負わされるものであり、南の海の上を流れる唄も、閃光の下に刻まれた人の言葉も、その同じ「人」の想いなのです。どれが「人」なのか…。

おそらく、「人」の進化はとんでもない「失敗作」なのでしょう。もはや、それが結論であることが歴史を知ることの意義だと思います。そうは思いたくない願いとともに、豪も否定・反論などできないのです。考えてみれば、全ての物理的な「恐さ」、精神に及ぶ「怖さ」は神でも悪魔でもなく、「人」がもたらしているものです。

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