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補足説明※44「本地垂迹(説)」


補足 ■お寺に行くと、その敷地内に神社があることに違和感を持った経験のある方はけっこういらっしゃるのではないでしょうか。例えば浅草の浅草寺の、浅草神社(三社権現、三社様)から三社の神輿が出るとか。お寺と神社は違うはずなのに。これが「神仏習合」という日本独特の思想で、その中心的な説が「本地垂迹(ほんちすいじゃく)」です。これは誰が唱えた説というよりも、日本の中にもともとあった考え方のようで、例えば東大寺建立の際、八幡様がやってきてそれを助けた事で「八幡大菩薩」の称号を朝廷から送られています。神道の神様が、仏教の「大菩薩様」になったと云うことです。

■仏教が入って来た時、それまでの在来の神様はあちこちにいらしたのですが、神仏大戦争(蘇我氏と物部氏との戦争はありましたが、これは政治的なもの)とはならず、「仲良く」どころか、これはもともと同じものであるという、極めて宗教としては「緩い」思想が、日本人の宗教観にあったとしか言いようがありません。ローマの神々とキリスト教のように凄惨なことにはなっていません。ホント、すんなり、と言いたいくらい両者が融け合っています。

■「本地(ほんち)」とは、本来の在り方のことで、「垂迹(すいじゃく)」とは、読み下せば、迹(あと)を垂れるという意味となり、神仏が姿を現すということになります。それを「権現(ごんげん)」といい、その権とは「仮の」という意味で、仏が神の形を取って仮に現れたことを示すようです。ご都合主義の極みのように思えますが、意外と筋は通っていて、「本地」を宇宙であるとし、人々の前に理解しやすい形で現れると考えれば誠に合理的です。原型としては「ヒンドゥーの神々⇒仏教の神々⇒日本の神々」となるのでしょう。別にそのように用意されていたものではありませんが、「同じような神々の世界があり、呼び名と姿が違う」ということです。まあ、それを信奉する者の「言葉」自体が違いますから。ちなみに、日本の神々としてはヒンドゥーの神々から時系列的に変化したのではなく、あくまでも後付です。そこだけはご都合的でしょうが。

■チョー簡単にご説明すれば以上のような事です。法華経にその根拠があるようですが、そこまで深堀りして考える事も無いでしょう。が、深く歴史上の事象としてみれば、少々複雑です。時代によって、「元仏」と「元神」とが五分の関係から上下ができたり、時には廃仏毀釈まで起きています。ハイ、国家神道などという戦前の「政教一致」の時代です。その前に発せられた「神仏分離令:1868年」(江戸期にもあったようです)が元になって起こった騒ぎですが、仏教全滅と云うことにはなっていません。仏様も神様もそれぞれに時代の荒波に揉まれていますが、現代にいたるまで神仏自体は争う事無く私たちの生活の中に生きています。

■「本地垂迹」の説に則れば、キリストもマホメッドもありとあらゆる神々が「本地」である宇宙から「垂迹」して姿を現したものとすれば、宗教の大本は皆同じ、ということです。究極に言えば、神も仏も異なる文化の産物と言えるのでは。ただし、その仕事は「人を導き、救う」ことであり、「人を危める」存在は神でも仏でもありません。それを大義名分にするなら、それはチョーご都合主義もいいところ。神仏も迷惑でしょう。

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