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変 その78「葬式仏教の坊主に物申す アホか それでは何も救えぬ!」


ペットある程度の年になると自分の最期、まさに「終(つい)」となる時の事を考え始めると思います。余談ながら、私はまだ何も考えてはいませんけど、ただ、これまでの伝統的な「葬式、埋葬」なんてのはもうとっくに形骸化して、そんなものは何のガイドラインにもならない訳で、いずれ自分でその形を考える必要があるのだろうな、程度の事は思っています。余談ついでに、私は瀬戸内海沿岸の某地方都市で生まれ育ちましたので、私自身の信仰はともかくとして、宗教的な「文化、様式」としては「浄土真宗」、特に「安芸門徒」として勢力の強かった地域らしく、それが当たり前の光景とズッと思っていました。

で、こちら(関東)に来て違う宗派のお墓を見て違和感を感じたのは、皆、「家」の名前を墓石に彫っていることでした。これはどこかで書いたことですけど、むこうにも家の名前を墓石に彫っているものはありましたけど、よく目にするのは「一期一会(いちごいちえ)」「倶会一処(くえいっしょ)」という文字が彫られた墓石で、そこには確か墓の持主(施主)がOKすれば、家の者でなくても誰でもお骨を収めることができるお墓でした(今では他宗教でも、寺の都合からなのか、そうなっている墓もあるようです)。「一期一会」は、その人の一生を現した「一度しかない縁」を表した言葉でしょうけど、私は「倶会一処」という言葉が好きでした。「人の人生は色々で一様ではないが、最期はここに集まってきて、皆で一緒に仏に会える。お疲れ様でしたね」といった意味です。

こちらに来て色々な方の葬儀に関わるとき、そうした浄土真宗の「特異性」、表現としては「浄土真宗はこの限りではありません」なんて言葉を見かけ「そうなんだ…」なんて思わされました。言ってみれば、一般的に多くの宗教が「権威的」で、浄土真宗は「互助的」な、「ゆるい」宗教であるような感じです。まあ、今は殆どの葬儀が企業の営業によって行われ、かなり画一化されているように思いますけど。言葉は悪いですが、お寺も後継者不足で減っている中小企業みたいなものでしょうし、檀家制度(地域の信者が寺の造営・運営・管理に協力する)などももう「何、それ?」ってな感じでしょうね。

と、前置きのような文章が長くなってしまいましたが、私は今の世の中、修行の足らぬ坊主ばかりで、本来の仕事である「人を導き、救う」という仏のエージェントとなり得る者などいないと思っています。で、葬儀や埋葬の形も、伝統的・古典的なものとは大きく様変わりし、「散骨(海に遺骨を撒く)」「樹木葬(樹木の元に自然な形で埋葬)」等、様々に変化しています(自治体によっては認めていないところもあるようです)。お墓のマンションというか、コインロッカーのようなものもあり、WEBからお参りできるものもあるようです。坊主も形式的なものになって、WEBの通信販売で調達できるようです。かなり変わってきましたが、全ては時代と、人の宗教観(?)が変化してきた故でしょう。今や「墓石の墓場」という、笑えもしない「粗大ゴミ置き場」があるそうですし…。

しかし、まだ「葬儀、埋葬」といった「人の最期」の在り方について、まさに仏教の陋習というべきものが残っているようです。今や高齢化社会を迎えて、65歳以上の高齢者が全人口の四分の一程度となり、その人数は増えていくでしょうけど、子供と同居しているという世帯は殆ど無いといってもいいくらいの比率となり、夫婦のみ、独りといった世帯が当たり前の時代になっています。いずれにしても最後は「独り」です。とはいえ、そこに「家族」ともいうべき存在が増えてもいるようです。正確な数字は分かりませんが、犬や猫といったペットです。単純にそれを「癒し」効果とするのには違和感を覚えますが、人は他の動物と触れる時、オキシトシンというホルモンを脳内に分泌し、それは「幸せホルモン」とも呼ばれ、幸福感を覚えさせてくれるそうです。犬や猫も分泌するそうです(馬や牛などもそうなのでしょうか?)。

つまり、人とペットは愛情といっても良いコミュニケーションができるという事です。であれば、それは大切な家族であると、直截的にいってもいい関係でしょう。故に、人がその大切な家族を、「終」の場所でも共に在りたいと思うのは当然の事でしょう。しかしながら、一部では対応しているものの「霊園やお寺に(一緒の埋葬を)断られた」というケースが少なくないようです。理由はメガトン級にバカバカしい! 仏教では、輪廻転生する六つの世界があり、「地獄道」「餓鬼道」「畜生道」「阿修羅道」「人間道」「天道」に分かれ、人間以外の動物は「畜生道」に属し、「人間道」の者が悪い行いをすればその「畜生道」に落ちるという、「人間と畜生は違う世界の存在」という、とっくにカビの生えたような仏教の教義が理由だそうで…。「動物愛護精神」の欠片もない、ボンクラな考えです。

これもあちこちに書いていますが、私は「輪廻転生」は生命再生・循環の宇宙メカニズムとして考え、「天国と地獄」などといった二元的な世界観は人が勝手に作り上げた創造の産物であると断言しています。断言できる理由として、そもそも「善悪」などという基準は「誰がどこで作り、どう決めるのか?」という、解など絶対にあり得ない事に依って立っているからです。まさか、そこに神や仏を置くのなら、彼らは「導き救う」存在ではなく「裁く」存在です。そんな荒涼とした恣意的な世界が、都合よくあり得るわけがない! とまあ、私は宗教学の専門家ではないので、この問題はこの辺にしますが、自分が生前に愛したものと「終」を共にすることを叶えない坊主どもに、そもそも人が救えるわけもない。WEBか新聞の記事でこのような事を知った時、個人的には相当にムカつきました。

これは母親から聞いた話ですけど、戦前のことだそうで、可愛がっていた猫が最期の時を迎えたのか、行方不明になったとか。猫や象など、自分の寿命が尽きようとするときに姿を隠すといわれる動物がいます。母親の家の皆が可愛がっていた猫の最期を感じていたある日、祖母の枕元の下から弱々しい猫の声が微かに聞こえてきたそうです。祖母の訴えに祖父と叔父が縁の下に入っていって確認した所、祖母の枕のあった真下で、猫が死んでいたそうです。最期の最期に、一番可愛がってくれた祖母の近くで身を隠し、別れを告げたのでしょうか。この話は母親から墓参りの度に聞かされました。その猫は、「倶会一処」と彫られた墓の脇に埋められ、祖母が弔いに、近くにあった榊の木を折って墓の脇に刺したそうです。その木の枝は根付き、今では立派な榊の木になっています。

こうした、人と他の生き物との感情交流の話は枚挙に暇がありません。そうした事に、アホらしい教義でクソ真面目に対応する坊主とは何たる存在か…。今や、坊主のいう事を信じている人って、どの程度いるのでしょうか? 命には人も猫も犬もなく、全てが連綿とつながっていくものだと信じています。いえ、そうでないと、命というものをどう捉えて良いのか分からないのです。命は無機質の機械ではありません。

てか、私、昔から坊主って嫌い。まあ、一部仏教界でも、現状を改めようとする動きがあるようですが、まだ「ペットは往生できるのか」って脱力的なテーマに取り組んでいる段階みたいですけど…。

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