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変 その73「火垂るの墓 自己責任? 自業自得… だから戦争は何度でも起きる」


火垂るの墓 イメージ高畑勲監督の訃報にふれた時(2018/4/5)、率直に「ああ、これで戦争という愚行を、その経験を以って訴えられる大きな存在がまたひとり、いなくなった…」という思いが染み出るように湧き上がってきました。私自身に直接の戦争体験はありません。私の父親は戦争に兵隊として外地へ行っています(召集で強制的に行かされています)。母親は、出身地である瀬戸内海沿岸の某地方都市で、あのおぞましい、天才物理学者オッペンハイマーに「われは死なり」と言わせしめた、人間を蒸発させ、その尊厳も何もかも焼き尽くす史上最悪の大量殺戮装置が使われた日に、市から離れた町で、その閃光を見、大気を震わせる恐ろしい音を聞いています。私の祖父は爆心地から数km離れた市の中心地で瓦礫の下敷きになり、一命をとりとめました。その背中には一面、ケロイドの痕が残っていました。親戚縁者も多く亡くなり、生き残った人たちから聞かされるその話は、子供心にとんでもなく恐ろしいイメージを植え付けました。

その恐ろしさは何十年経った今でも全く消えることがありません。それどころか、現実に世界でまだまだその「戦争」という化け物はさしたる大義もなく、人間の尊厳を磨り潰し続けています。人が人を殺し続けています。大量に…。恐ろしいほどのお金の浪費を厭いもせずに、敵と称する相手だけではなく自分たちの同胞も…。歴史上のどのような「知性」もそれを止めることはできません。歴史を学ぶということは、人間の「戦争」という、繰り返し繰り返し行われる「殺し合い」を学ぶということに他なりません。

私自身は直接「戦争」というものを体験したことはありませんが、子供の頃に聞いた大人たちの話、そして歴史を学ぶことで、その「戦争」というものへの嫌悪と自分を含めた人間の「バカ」さ加減に、やりきれないほど心が荒んでしまいそうな想いは強く持っています。

前段が冗長になり過ぎてしまいましたが、書きたいことはここからです。野坂昭如の「火垂るの墓」、そして高畑勲監督がアニメ化した「火垂るの墓」を私は絶対に見ることができません。あらすじは知っていますが、その作品に触れると即座に号泣してしまいそうで(間違いなく泣きます)、辛いのです。と同時に、自分の腹の中にある「戦争」への嫌悪が化け物のように騒ぎ始め、精神的に我が身を安定させることができない激情にシェイクされることが間違いないからです。ですから、私はこの作品からは「本好き、アニメ好き」なのですが、距離を取ってきました。情けないかもしれませんけど…。

で、この記事を書こうと思い立った動機は、高畑勲監督へのオマージュ(尊敬・敬意・賛辞 仏:Hommage)ではありません。監督がかつて語っていた言葉を新聞(朝日新聞朝刊2018/4/22)で読み、とんでもなく憤ったからです。その記事のタイトルは「自己責任論 『予言』した高畑監督」。記事内容を極力明快にまとめれば、「火垂るの墓の主人公である清太と妹の節子が、叔母の家を出て『二人で生きよう』としたのは清太の我儘で、『二人に冷たい扱いをした叔母はむしろその時代では有難い恩人ではないか』という見方がいずれは起こり、悲劇は清太の自業自得であるという『自己責任論』で指弾される時が来るのではないかと監督は懸念されていたようで、それは、清太的な行動をシンプルに理解・共感できる時代が、『逆転(パラダイムシフト:補足説明※63)』を起こしたときに起こると予見されていた」とのこと。そして、その予見通り今、「逆転」が現実となり、WEB上に『自己責任』『自業自得』なる言葉が目立ってきている」、というものです。

確かにWEB上で「自己責任」「自業自得」などの言葉を、関連サイトの中で目にしました。その時の私の心情は、まずストレートに「クソッタレが! この野郎ども!」、です。「自己責任論」がいかに人間の寛容の精神を阻害し、どれほど人の精神を痩せさせるものであるか、どこかで書いた記憶がありますけど、これは論理的に説明可能な事実です。とはいえ感情交じりでその理由を書けば「自己責任論を他者に唱える者は、自身に自己責任など全く持っていない」ということです。なぜなら「自己責任という特質を強く持っている者は、他者の自己責任はあくまでも他者のものであるとして干渉しない」からです。自己責任なんてことを言う輩、「一歩、前に出よ!」。あなたは「責任感の強い、また精神的に強い人間ですか?」。全く逆の存在ですよ。他者の自己責任を言うのは、自己の「正義」をヘラヘラと語って気持ち良くなっている輩。そして、その「正義」こそが「他者への干渉」の根拠なき大義へとつながり、そこに「不毛の争い」「戦争」という大悲劇が起こるということは歴史の事実! 「自己責任だ」なんて、問題解決の当事者となることを避けるための、無責任で便利な言葉です。

高畑勲監督が語ったように、時代は「逆転」し、清太の「人としてのあるべき、人として願う生き方、姿」に共感できず、それを歪なメガネでしか見ることのできない輩が湧き出し始めたのでしょうか…。それがどれほどに恐ろしい、唾棄すべき事であるか、子供の頃に焼き付けられたイメージが唐突に湧き上がり、脳味噌が悲鳴を上げそうになります。「コンチクショー!」。

他者の「自己責任」を指弾し、自らの「正義」を振りかざし、他者の多様な行動に対する想像力を失った社会、他者に対しての寛容を失った社会…。たおやかさを失った単一の価値観が支配する社会…。この国はまた、悪夢の全体主義に一歩近づいているのかも…。それでいいのでしょうか。変でしょ!

しかし、書いてみると、この記事は「変」というよりも、「怖い」なのかもしれないと思いました。

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