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変 その68「差別は絶対に無くならない 差別を差別と思わないから」


考える 世の中には様々な差別があります。出身地や、生まれた家の事情(経済や家族構成など)、生まれ持った身体的特徴(それが障害である場合も)、健康上の問題、家族のこと(子供の有無など)、経済状況、等々、論えばキリがありません。具体的に言えば、まだ生きている部落問題、貧乏な家であることや両親が揃っているかどうか(昔は親が一人の家庭を「欠損家庭」なんて言ってました。今は…)、子供ができないと必ず言われることは「作り方を知らないのか」とか「俺が手伝ってやろうかとか」(たいてい男が男に言う)、殆ど脱力か嘔吐感しか覚えない常套文句を聞かされる方が多いと思います。生まれ持った身体的特徴は色々ありますが、事故によってそうなってしまったことなどへも差別的な表現は「痩せた精神」とともに、その醜悪な言葉を垂れ流します。どれも、自分の力ではどうにもできないことですし、何かをしたためでもありません。一方的に差別されるだけです。

何故なのでしょうか? どうして「差別」とやらが起こるのでしょうか。私はこの「差別の根源」にあるものを、それほどに強烈な「人間の精神」から発せられるものではないと思っています。例えば「敵同士」で行われる差別的行為は「憎しみ、報復」と言った方が適切で、これはあまりにも重い感情から発せられるものだと思います。それとは違って、我々が日常経験する差別は、先に述べたように「痩せた精神」から発せられる、言ってみれば「子供じみた稚拙なもの」が殆どであると思います。何故なら、差別を行う人の「精神状態」は「いじめっ子が味わう快感」程度のものであると思うからです。「差別」が起こる理由を、それ以外に考え付かないのです。身も蓋もない「結論的」なことをいきなり言ってしまうようですが、実際、日常的に行われる「差別」にはそれほどまでに強い「動機」があるとは全く思えないのです。

人を貶める「快感」が「差別」の根源(私はそう考えます)であるとすれば、芸のない表現ですが「他人の不幸は蜜の味」といった類のことが容易に起きるのです。しかし、では、その「差別」を他者に行っている者はそれを「差別」であると気付いているのでしょうか。「気持ちが良い」訳ですから、全く気付いていないということもないと思いますが、おそらくは、「冗談で言っている」程度に感じているのでは。実際、(私が)相手の差別発言に色をなして反論すると、けっこう「冗談で言ったのに」なんて言葉が返ってくる頻度が高い。当然、「冗談」で済むような「発言」ではないのですが。私事ですけど、具体的な例で言えば、私は瀬戸内海沿岸の某地方都市で生まれ育ちましたが、そのことで「あそこ出身の者はみな原爆のケロイドがあるんだろ」と笑いながら言われた時、怒髪天を突きました。その「あまりに軽き言葉」による「あまりに低い知性の披露」…。「冗談」だそうですが、私はそれを「人と認めず」ご縁を切りました。祖父の背中には一面ケロイドが残っていました。身を焼かれて、かろうじて助かった命です。

例えば、それぞれの局面での言動だけではなく、構造的な「差別」もキリはありません。例えば、高校進学時の内申書ですが、これは教師の不用意な一言で知った事ですが、私は家庭の経済状態で公立に進みたい希望を持っていましたが、私の家は「問題家庭」とやらで、私は勝手に「不良候補」となり、「商業・工業高校」以外、どこを受けても公立は落とされたそうです。ここにどれだけの差別構造があるか、語らずともお判りでしょう。私が何かしたのでしょうか。そこに「人間の知性」など感じません。極めて機械的な対応に何の疑問も抱かない脳みそが並んでいるだけです。「教育」とか称して…。

それからもう一つ。これはズッと不思議でならないことなのですが、就職するとき「健康診断書」の提出を企業から求められますが、この「身体の状況」なんて「個人のプライバシー」の最たるものだし、その提出を求める企業は「徴兵検査」をやっているのでしょうか。学費と生活費を稼ぐ必要があり、バイトを掛け持ちして少々体調を崩していた私が、反感はあるものの致し方なく大学の指定医に健康診断書を取りに行くと、やはりあまり良くない結果が出ていました。その時、医師に言われた言葉が「君は、銀行や商社、公務員は無理だね」…。私、その機械的な言い様に、頭には来ましたが「そんなとこに行くほど馬鹿じゃないんで大丈夫です」と返すしかありませんでした。誰も多分、それを、おかしい事とは思わないのでしょう。まあ、自分の正気を信じ、長くフリーランスの世界を選択した遠因がこの辺りにありますけど。

昔の個人的な愚痴に思われるとちょっと心外ですが、事例はどのような表現にもまして説得力がありますから、いくつか挙げてみました。同じような経験をしている方は少なからずいます。学生時代までは「苦労しても何とか頑張れば認めてもらえる」ってなことを、まだ可愛らしく信じてはいましたが、正直、そんなものはいつの間にか消えていましたね。できる限り「依存しない」生き方を模索する中で、歪な「人の痩せた精神」「社会の痩せた苗床」ばかりが見えてきたという正直な思いが、オヤジとなった身にあります。人は「他愛もなく無邪気」に人を貶め、差別します。その「おかしさ」に自ら気が付くことはどうも、無いようです。自省的にも、社会の構造としても。

ハイ、ここに、この世から「差別なるもの」が消えてなくならない最大の原因があるのでしょう。皆、全く気付いていないわけではないと思いたいのですが、稚拙な快感をもたらす「差別」を「差別」であるとは思っていないのでしょう。そこに「思考」という人間の力を働かせることなく、停止させているのでしょう。こりゃ、「差別」が無くなる訳ないよな。エッシャーの絵のように、「無限の連鎖、循環」が閉じ込められた空間のようです。

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