「不思議」「怖い」「変」を普通に考える。タイトルバナー

変 その56「歪なアイデンティティ① 不幸の中でしか生きられない」


誰もいない確か「アイデンティティ」なる言葉を初めて聞いたのは、大学に入りたての頃だったと記憶しています。訳せば「自己同一性」。私はこの言葉の概念をなかなか理解できませんでした。田舎者だからでしょうか。まあ、そうなのかもしれません。その自己同一性なるものが、「自分を自分として連続的に認識できる主体性」といったような意味であることが多少分かった時、「何で、そんなものが必要なの?」とけっこう真剣に不思議でした。「自分は誰?」なんて事、考えたことありませんから。「わしゃ、わしじゃ(方言)」。このアイデンティなるもの、今ではかなり世の中に馴染んできた感のある言葉ですが、自分が最初に思えたミョウチクリンな感じはいまだに残っています。

人は「自分・自己」というものを認識するのに、大雑把に言えば「感じて考える自分」と「他者から認められる自分」との二つの方法があると考えます。この二つは全く異なるものではなく、ワンセットであるとは思うのですが(当然、自分は一人ですから、ということで)、整理のためにあえて分ければ、前者は大袈裟に言えば、自分の「城」を作っていくような作業で、その成果はかなり「堅牢」なものになると思います。デカルトの「我思う、故に我あり(Cogito, ergo sum:コーギトー・エルゴー・スム)」などを持ち出すまでも無く、自分の内部に「連続的な主体性」を築くということでしょう。私はこれが普通と考えます。

その意味においては「アイデンティティ」なるものはその状態を指すだけの言葉だと思いますが、社会心理学的な立場に立てば、後者も無視は確かにできません。ちょうど学生のその頃、「僕って何」という三田誠広の小説が芥川賞を取って話題になっていたころのあとだと思いますけど、私には「僕って何」ってタイトル自体が不可解で、読む事は読みましたが、学生運動を経験していないので、特に感情移入した経験はありません。なるほど、時代なり、その社会なりの中で「僕」は出来上がって行くということなんですね、って読後感しか残っていません。

で、確かにそうなんでしょう。特に、「社会」という人の集団の中で見つめられて、認識されて、そこで成り立つ「自己」というものがあるのは、理解できます。が、批判覚悟で言えば、そこにはかなりの「手抜き」を感じてしまいます。なぜなら、まず「主体的」な自己が先にあって、そして、社会との角逐の中で、社会的存在としても成り立ち、(違和感はあるにしても)アイデンティティなるものが個人として得られるのでしょうから、いくら社会の中で揉まれたとしても(言い方は悪いのですが)スカスカのスポンジでは、水を吸わされるばかりで、拒むことも吐き出すこともできません。

では、「他者から認められる自分」という事によって「自己」を確立するとなると、(オヤジ臭い事を言いますが)、「努力」とか「向上」とか「目標」などと云った古典的な「克己」なるものが不要となり得る可能性が出てきます。どのようなことでしょう? 様々あるとは思いますが、他者の集団である社会が「主体性」を持ち得ていない自己を「認めてくれる」一番簡単な方法は、「不幸(被害者)」となることだと考えます。ここで強くお断りしておきますが、この「不幸(被害)」の中には、事故や災害や戦争や、自分の力ではどうしようもないものが起因する「不幸」は全く対象として含みません。それらは、「社会」そのものの「不幸」であり、全員が共有しますから。ここでいう「不幸」は「不幸な私」というものです。

人というか、その集団である社会には「同情」という力があります。まあ、感情移入の力でしょう(他人の不幸は蜜の味、ともいいますが…)。であれば、「自分の不幸を見せる(もしくは演じる)」事によって、社会は「不幸な人」として認識し、その認識が「自己」として成立しえます。つなり、アイデンティティとやらになり得るということです。私がその典型と思うのは、いわゆる「リスト・カッター」です。これは単純に精神病理的な「自傷」行為である場合もありますが、私が言いたいのはそれを「人に見せて、何故、そうなったのかを語る人」がいる奇妙さです。何故、見せるの? 自分の傷は「隠したい」と思いますけど。聞いてもいないのに、「身の上話」とやらをするのもそうです。「死んでしまいたい」という言葉にも、奇妙なものを感じます。

それらに共通するのは、全てが「受け身」であり、その受け身である「不幸」をアピールする事で「自己」を得ているのか、と思えるのです。聞きたいとは思わないですが、耳にするのは「その程度…」と思える、あまり大した事とも思えない、誰にでもあるような事です。

どうにも「歪」さを感じてしまいます。本物の「不幸」なんて桁違いの化け物ですよ。「語れる程度の不幸」がそんな「本物の不幸」に出会ったら、尻尾を巻いて飛んで逃げてしまうでしょうね。

ちなみに、自らの不幸によりアイデンティティを得ようとしている(?)方々は、実際には「どこが不幸なんだ?」という、一般的な目からは「普通」に見える方々です。そこまでして、アイデンティティというものは得なければならないものなのでしょうか。考え込んでしまいます…。

ご提案です。比較的簡単に「自ら主体性を得て」「社会と関わり合い」ながらアイデンティティとやらを確立できる方法がありますよ。それは、「何が何でも私は幸せである」と言い張ることです。これは別の所でも書きましたが、どのようになろうと「この世に生きている自分は幸せ」であり、仮に社会が「お前は不幸、不運だな」といっても、断固として「私は幸せである」と撥ねつける事です。難しいですかね? けっこう、シンプルな方法ですよ。続けていると、何だか慣れてきて、幸せな気分になれますから。

アイデンティティとやらに悩んだらぜひ! 簡単な方法です。

「変」を考える編 目次へ





【商品検索】Powered by Amazon

↑「すべて表示」をクリックするとAmazon.co.jpの検索結果一覧に移動します。

■これからギターを始められる方のご参考にでもなれば。
木の音 バナー
「雑学を楽しむ」サイト
テキトー雑学堂 バナー
「花を楽しむ」サイト
花を飾る バナー


■サイトポリシー ■プロフィール
■お問い合わせ
ページトップへ戻る

Design by Megapx / Template by s-hoshino.com
Copyright(C) Ureagnak All Rights Reserved.