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変 その19「高速道路で、前の車の窓からペットボトルが…」


都市趣味で釣りをやるという事はどこかで書きましたが、主にやるのは船釣りです。船釣りの朝は早く、早い時は家を2時前、通常でも3時くらいには出る必要があります。早起きなんてものじゃありません。夜遅くなりそうな時には船宿に行って素泊まりする事もありますけど、大抵は朝早く、家から出発します。夜の高速は東日本大震災の電力規制で未だにかなり暗い…。まあ、それで走れなくなる事はありませんが、少々緊張はします。

で、ある日、いつものようにまだ暗い高速を走っていると、大型トラックのコンボイ(集団走行)にぶつかりました。あれは威圧感があるのと、大型なので排気ガスがけっこう強烈で、即、追い越し車線から抜かしてもらいます。余談ですが、以前、同様の行為をしてスピード違反で捕まった人が、「子供が喘息で、トラックの排気ガスから逃れるため」という理由で無違反を主張されていましたが、結局、違反という裁判所の裁定でした。あれって、警察も分からないのでしょうか。大型トラックが集団で走っている後ろについていると、けっこう排気ガスが車の中に入ってきて、キツイです。その方には同情しましたが…。

で、私も追い越し車線に入ってコンボイを追い越そうとしましたが、私の前を走っている車が先に追い越し車線に入りました。ウインカーも点けずにいきなり…。けっこう危ないのでムッとしましたが、走っている相手に文句も言えないし、パッシングするほどの事でもないし…。と、少々不愉快な気持ちでその先行車の後を走っていたら、突然車の右手の方から何か白く見えるものがまだ暗い中を飛んできました。アッという間の事ですが、その白いものは私の車のフロントガラスにバシッとぶつかり、後方へ飛んでいきました。私、思わず反射的にそれを避けようと、ハンドルではなく頭を避けました(本能的行為)が、目が点…。その白いものはフロントガラスにぶつかる瞬間に見えたのですけど、なんと1Lのペットボトル…。前の車の右窓(ドライバー側)から投げ捨てられたものです。高速道路で、です。

信じられない…。以前にも空き缶を前の車が窓から捨てて行きましたが、それは私の車に当たらずカンカンと後ろに転がり飛んでいきました。もちろん頭に来ましたが、追いかけて走って行ってどうなるものでも無し…。高速で相手の車を止める訳にも行かないし。一般道なら間違いなく追いかけて、文句を言います。が、高速道路…。

そんな時、いつも思うのですけど、もし後ろの車がそれに驚いてハンドルを切り損ねる等の反応で事故でも起こしたら…。こちらも車の中ですから、ペットボトルや空き缶の直撃で怪我をするようなことは無いでしょうが、高速走行中の一瞬の事ですから、思わぬ反応で事故が起こらないとも限りません。それが想像できないとは…。おそらく、車の窓からそうした空き缶やゴミなどを捨てる人は何度も平気でやっているでしょう。しかし、そうした事を絶対にやらない人も当然います。これは、真っ二つに分かれるのではないでしょうか。やる人は常に平気でやる。やらない人は絶対にやらない。その中間という人はいないでしょう。時々は捨てるとか…。もちろん、「間違って」というのはあるでしょうが、そう思います。

これは、何故なんでしょうか? 想像力の差? 道徳観念の差? 道徳などの規範、常識以前に、危険を伴う事です。やはり、想像力の差でしょうか? 私の友人に車の窓から物を捨てる人はいません。しかし、捨てる人は捨てます。高速の出口でびっくりするような光景を見る事があります。路側がゴミの山です。それも半端な量じゃない…。殆どが右側です。という事は運転席からでしょう。ドライバーがやっている訳です。

マナーは個人個人によって成り立つものだと思います。では、なぜマナーやルールを自然に受け入れられる人とそうでない人が真っ二つに分かれてしまうのか。これはあくまでも仮説ですが、先天的な性格という事もあるでしょうけど、殆どは後天的なもののように思えます。公共的な場所での色々な方を見ていても、自己中な方とそうでない方はハッキリと分かれます。例えば空き缶ですが、電車の中にそのまま置き去りにする人は電車の中でそれを飲んでいるという事です。もし、電車が揺れてそれが隣の人にかかってしまうということは想像されないのでしょう。菓子などをボリボリと食べている人もそうです。物によっては美味しそうな匂いですけど、ガムなんかもそうですが、あれは生理的に嫌な音です。駅前など、けっこうビックリするほど、噛んだあとのガムが吐き捨てられています。たまに電車の中でもあります。

そうしたマナーやルールは、特に都市部の不特定多数の人間が行き交う空間の中で必要な物だと思いますが、欧米に比べこの日本は、時間をかけて都市を作ったというより、土建的にいきなり都市を作ってしまった訳で、という事は、その中での立ち居振る舞いがまだ追いついていないのでは。

司馬遼太郎の言葉を借りれば「我々は、訓練をしてでもそれを得なければならない」とか。要は、都市とは様々な「サービス」のかたまりです。もし、サービスを受ける側だけで生きてきたとしたら、どうなるのでしょうか? ゴミは誰かが片付けてくれる。道路を自由に走るのは権利だ、金を払えばなんでも手に入る等々…。クレジットカード依存症(という病名が正式にあるかどうか知りませんが)といわれるものの原因は、消費について回るサービス(接客など)の快感から離れられなくて、結果的に経済的破綻をしてしまうという記事を読んだ記憶があります。

コミュニティなる言葉が盛んに言われているのは、それが少なくなったからでしょう。相互関係の中で生きるより、サービスを享受する側で生きる場面の方が多くなってきているとしたら、「相互」の感覚は育まれることなく、衰えていくのでしょうね。相互という、「相手」への忖度、礼儀というものが希薄になって行くのは当然なのでしょう。

オヤジの愚痴などではありません。「サービスや物」に囲まれて生きているうちに「人の精神がどんどん痩せて行く」のでしょう。「人の精神の豊穣は決して、便利さや経済的豊かさ、消費行動からは生まれてこない」と思います。的外れな感想かもしれませんが、活動的、外交的な人ほど、一対一になって話をするとスカンピンに感じるのは何故なんでしょうね。

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