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不思議 その76「親子兄弟… 血縁というのは意味のあるつながりなのか…」


親子これは「疑問」というより「妄想」なのかもしれません。また、「不思議」という感覚には馴染まないものかもしれません。しかしながら、オヤジになって改めて考える時、周りに見えてくる景色の中に、自分に対する、親子だ兄弟だ血縁だといった関係性のある存在が少なくなり、また、友人知人を見ても、自分と同じような状況になっています。自分も含めて周りの者も、血縁というものへの想いは弱くなっているか、無くなっているような…。何故だろう、と思う以前に、そもそもがそれが意味のあるつながりだったのだろうかと考えてしまいます。

確かに「家族」というものが社会の最小単位であり、人間という社会的動物はその集合体の中で生きているというのは事実です。しかし、その家族というものを「つなぎ留めておくもの」が、必ずしも血縁という宿命による、例えば「愛情」とか「絆」とかいったものでなくとも、「家族」は成立すると思います。それは「経済生活」です。子供は自らを養う事はできません。そこには、親が必要です。教育などのあらゆる社会活動に関しても親の経済力というものが、たとえ格差があろうとも必要になります。で、その子供に対する「扶養」義務なるものは法律によって決められています。社会的な構造としては「順送り」のような構造を持っています。自分の親から受けたものを子に返す、という。

まあ、その程度に単純化して見てみると、必ずしも家族というものに「愛情」などという、蕎麦ではありませんけど「つなぎ粉」のようなものは必ずしも必要ではないように思えます。人間以外の動物と比べるとどうなのでしょうか。やはり親は子供を大切に養います。死んでしまった子を、十数日も沈まぬように寄り添って泳いでいるシャチの母親のニュースがありました。そのままだと母親のシャチも餌を十分に獲れず、死んでしまうかもしれないそうです。死んだ子供を離そうとしない母猿というのも比較的よく耳にする話です。そこに強い「愛情」というものがやはりあるのでしょうか。それを感じるのは、人の「感情移入」の力なのでしょうか。

人間と一般的な動物との「愛情」なるものを考える時、そこに厳然とした違いを見ることができます。それは「親離れ」「子離れ」というものです。人間でもそうした時期はあるのでしょうけど、それはどちらかといえば儀礼的なもので、そのつながりはズッと続きます。一般的な動物の場合は離れてしまえばお互いは別の「個」となります。つまり、親の面倒を見る動物は人間位なのです。その逆もまたありで、親がズッと子供と関わり続けるというのもあります。何故なんでしょう? 素朴に疑問を感じてしまいます。それは、先ほど書いたように「感情移入」といった、人間独特の「情」という脳の勝手な働きによってなされる事なのでしょうか。しかしながら…。

昨今、「親の虐待」「子どもを殺してしまう」「子どもが親との関係を切ろうとする」といった事をニュースや特集などで目にする事が多くなったような気がします。「ネグレスト(育児放棄)」などは家猫などにもみられるそうですけど、それは「人」と一緒に住んでいる環境の中で起こっている事のようです。「子どもの虐待死」などという、どうにもやりきれない事件が頻繁に起きているのは、何故なのでしょうか。

「愛情」などというものは「血縁」の専売特許ではなく、他人であっても「恋愛」「友情」など、ほぼ同次元にある「情」というのは成立します。「血縁」というのは「選択ができない」故に、時として疎ましいものになってしまうのでは…。卑近な例でいえば、私の周りに見える景色で、家族がズッと強い「愛情」で結ばれているなんて、そんなのは殆どありません。まあ、ありていに言えば、殆どが上手くいってないか、関係性が崩壊しています。昔はどうだったのでしょうか? 家族や一族というのは「生きていくため」に相互扶助として必要だったと考えるのが自然であるように思えます。で、あれば現在の家族、血縁というのも経済生活のためではないでしょうか。故に、自分の生活の質が落ちるから、子供を作らない。もしくは、経済的負担を避ける…、なんてことが起きてしまう…。

どうも身も蓋もない事をダラダラと書いていますが、これは私自身の「妄想」なのですけど、そもそも親子・兄弟などという血縁にそれほどの意味はないのではないかと思っています。その元は夫婦という他人同士から生まれていますし。血縁なんてのはその他人同士である夫婦から発生拡大し、同じDNA(遺伝子)から、機械的に複製されます。それは「肉体」です。親子だ兄弟だなんてのは、要は、複製されていった肉体で、「情」「意識」といったものは別物で、それはもっと高度・高次元のものではなかろうかと思ってしまうのです。

ハイ、誤解を恐れずに言い切ってしまいます。それは「魂」です。肉体はその魂の「容れ物」で、親子だからといっても肉体は別々。またそこにある魂も別々なのではないでしょうか。親子や兄弟が似ているというのは当たり前で、同じDNA(遺伝子)から複製されているだけの事で、その中身である「意識」「魂」まではコピーされないでしょう。性格が似ているとかいうのは、一緒に住んでいるから行動パターンが似てしまうのでは。一種の学習効果でしょう。ちなみに、私、人を見る時、その人が「仏様の欠片(かけら)」を持っているかどうか、という事を考えます。この「仏様の欠片」というのが「より良き霊格をもった魂」って事です。まあ、私個人の考えですから、稚拙とか阿保とか言われても、平気ですけど(多少はムッとしますけど)…。

私はそこにこそ、「命の再生産」「輪廻転生」の必然性を感じてしまうのです。そのことはこの編の「その35」に書きましたので、興味がおありの方はご覧ください。社会の構成要素である家族・血縁なるものが意味をなさなくなっている証左としては、「空き家の増加」「墓石の粗大ゴミ化」「葬式の簡略化」などなど、様々に社会そのものの位相が変わってきています。その中で「人の魂」なるものを、堂々と胸を張って(別に張らなくてもいいけど…)訴えたいのです。そこのところを、ストレートに考えて行くことなしに、人間としての本来的な在り方を模索することはできないと思います。ちなみに、私は特別な神秘主義者でもなければ特定の宗教団体にも属していません。

人間の存在価値は、あえて「現世」といいますが、その中でいかに自分の中の「仏様の欠片(魂)」を育てていくか、より「霊格」の高い意識へと向かって行くかであると、大真面目に考えています。で、「ではその魂ってのは何? どこから来るの?」って聞かれたらこう答えます。実体はエネルギーと同じだと。この宇宙の各次元を飛び回り、ある肉体に偶然飛び込み、その肉体を駆使して自らの「霊格」を高める生活を送っていく。それを何度も何度も繰り返し、呼び名は何でもいいのですけど分かりやすいので「菩薩」としましょうか、そうした高い霊格の存在に近づいていく…。牽強付会ではなく、ごくごく自然にそのような考えに至っているのです。歳を取ったから…、抹香臭くなるって…。

もう一度言います! 私は大真面目です!

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