不思議 その7「究極の一元的思考実験 シュレーディンガーの猫」

と、程よい前提で迷彩を施した上で、行きます。私の書棚には某Newton誌創刊300号記念の本が収まっています。2006年に買った本です。特集は「量子論」。不思議の塊です。この本、未だに私の妄想を楽しませてくれています。まともに量子論を語るなどは文系にとって、無謀の極みですので、それを材料に勝手な論を展開して楽しみます。
アインシュタイン(補足説明※5)の「神はサイコロ遊びをしない」という有名な言葉は、量子論におけるコペンハーゲン解釈派のボーア(補足説明※5)に向けられた反論です。超テキトーにその背景を言えば、「電子や光子の状態がどう観測されるかは、確率論的にしか予測できない」という論に、アインシュタインは「確立に支配される自然界」というものを認めなかった、と言う事です(多分)。
さあ、ここからが面白くなります。不思議の塊に、考えれば考える程、脳が溶けて泡立ちそうになります。この論争はくっ付いたり離れたりを繰り返し、今日の量子論を築き上げて行ったのですが、議論には極論というものが付きもので、反コペンハーゲン派の学者が「状態は全て観測した人間の脳が認識したときに決まる」と過激な解釈をぶっ放しました。
これに対してシュレーディンガー(補足説明※5)が「猫を使った装置」で批判した訳です。それがシュレーディンガーの猫。では、どんな装置かというと、これまた超テキトーに言うと、箱の中に、放射性物質が少しだけ含まれる鉱石を入れておき、その前に放射線検出器を置いておきます。で、もし放射性物質の原子が崩壊してその放射線を検出機が感知すると、毒ガスが発生する装置です。その装置と猫を箱の中に一緒に入れておくという「思考実験」です。放射性を持つ原子核がいつ崩壊するかは確率的にしかわかりません。ですから、箱の中の猫の生死はこれまた確率的にしか分からないと言う事です。
シュレーディンガーは、この思考実験により、前述の「観測して人間の脳が認識したときに決まる」という論に、「箱の中を観測しない状態では、そこに死んでもいるし生きてもいる猫が存在するというバカげた状態を認めることになる」と批判した訳です。とりあえず、なるほどです。
で、文系の脳味噌はこの辺りで、あらぬ方向に走ります。このシュレーディンガーの猫は確かに箱を開けてみるまで「死んでいるかも、生きているかも」です。要するに分からない訳ですが、彼の批判を逆手にとって考えれば、確かに箱を開けるまでの一定時間の間、箱の中の猫は「死んでいるとも考えられるし、生きているとも考えられる」と言う事です。確かに確率ですが、例えば、毎年少なからぬ人が事故で命を落としています。事故ですからこれも確率です。しかし、事故と言うアクシデントが0であった年は無いでしょう。起きるかどうかと言う事に関しては「必ず起きている」訳で、誰かが来年はその不幸に見舞われる訳です。
何が言いたいかといえば、人を、今という瞬間ではなく、1年間くらいの長いスパンでその存在を考えた時、まさに「生きている」と「死んでいる」が確率として重なっている状態となります。量子論での議論の本質を抜いて、情緒的に考えれば「人とは連続した時間のどの瞬間も生きているようで死んでいるようで…」という表現が成り立つではないですか。
私、「シュレーディンガーの猫」なる思考実験を初めて知ったのは大学での講義の時ですけど、その時のインパクトはけっこう強かった。思考実験なる言葉も新鮮に感じました。先の表現を取れば、まさに死生観とは二元ではなく、一元となります。これは日本人の情緒の中に見られる「無常観」に通ずるように思います。私はこの無常観をネガティブな観念とは思いません。
さらにぶっ飛びます。鴨長明の方丈記、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」とは、今という瞬間を切り取れるものではなく、全ては無常(確率)のままに流れている訳です。断じられるものは何もなく、向こうもこちらも無い(判じられない)。
近代の量子論から平安思想へ飛んでしまいましたが、私には「シュレーディンガーの猫」はまさに、究極の一元的思考実験ではないかと思える訳です。
この手の話は放っておくと際限なくあちらこちらに敷衍展開して、最後には風呂敷を閉じられなくなるのですが、話の落とし所が無くなったと思われるのは癪なので、言いたいことを一発。
私が二元論を好まないのは、選択の(たとえば天国と地獄のような)議論になり、一元論であれば本質へ近寄って行けると考えるからです。違うものを同じ視点で考える。まさに、シュレ猫ちゃんはそれを示唆してくれます。
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