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不思議 その65「念じると通じてしまった… そんな経験、ありませんか」


考える 例えば、あまり良いことではない場合も含めて、「こうなれ」「こうなってしまえ」と思い続ける、すなわち「念じて」いると、そうなってしまった、なんて経験ありませんか。大なり小なり、そんなことを経験した方は少なからずいらっしゃるのではないでしょうか。冒頭で「あまり良いことではない場合も含めて」と書きましたが、この辺は言葉を中途半端に濁しても話が進みませんので、あくまでも一例として書けば、「あんな奴、この世からいなくなってしまえ!」なんて念じていると、その方が不慮の事故にあったり、思わぬ重病に罹ったりとか…。もっとも、そればかりではなく、仕事でも、この仕事で競合に勝てますように、とか、自分の子供や親など大切に思っている人が思わぬ病気に罹ってしまったとき「治ってくれ!」と念じていると、お医者さんもビックリするほどの恢復を見せるとか。

そうしたことを「たまたま」とか「偶然」とかで済ませてしまおうとすれば、それまでですが、「念ずる行為」に何某かの力があると思える事って、個人的にはあります。ちなみに「念ずる」という行為ですが、いつもの新解さん(国語辞典)で調べてみると、「(仏の名や、お経を)忘れないようにいつも唱える。」「(相手に)不幸が無いようにと思う」とあります。全く新解さんらしくない無難な解説です。これでは「念仏」と「祈る」と言うことと大差ないではないですか。私の新解さんは年代物なので、今は違うのかな…。では、「念」で調べてみると、「心から常に離れない気持ち(思い)」「手落ちのないように気をつけること」…(※手落ちは差別用語ではないですね。片手落ちも明確な差別用語ではないと思いますけど。一部の人が騒いで、言葉狩り…)。

ここで「念じる」を定義しようとすれば、やはり「心の中で常に(こうなれと)思い続ける」ってことですかね。オカルトやスピリチュアルの世界では「超能力的」なものとか「呪詛的」なものを含んでいる場合もあるのでしょうが、そうなると話が異次元の方向に向かってしまいますので、あくまでも「日常生活」の中で、ということに絞って、この「念じる」ということを考えてみたいと思います。

もし「念じ」たらそれがすべて実現してしまう、なんて方がいらしたら、その方はこの世の支配者になる訳ですから話はそれで終わります。私がここで考えたいのは「地球征服」とか「億万長者」を願っての「念じたら通じた」なんて極めて射幸的、野望的なものではなく、日常の中で「念じて通じる」ことが、果たして偶然なのか必然なのかということです。必然と言っても、「必ずそうなる」ということを指してはいません。人があることを一心に「念じる」と何がどうなるのでしょうか。私は、「強い意志」の働きかけは「現実に働きかける物理的な力」を持ち得るのではないかと考えています。自分の経験で言わないと説得力がありませんから、少しばかり…。私は、仕事、つまり生活の糧を得るという経済的な行為に関してはプータローの様な生き方をしてきましたが、自分で働き始めてからは決定的にお金に困ったことはありません(それ以前は貧困家庭のガキ)。まあ、少々苦しいことはありましたけど、そんな時に無理やりにでも不安を押し殺して「なんとかなってくれ」と念じていると、あら不思議、思わぬところから仕事が来たり、ホント、懸賞にでもあたるような感じでことが上手くいったり、で、ここまで大過なく過ごして来れました。今思うと、いつもそれらは、下手をしたらホームレスの可能性を孕んでいたと思います。何かが「助けてくれる」のです。

これは「宝くじに当たりますように」とか「競馬の馬券が当たりますように」とかいった、極めて実利的なことではあまり期待できませんが、「自分が生きていく上での良い流れ、助け」のようなものに関しては少なからずの確率で経験してきたと思っています。キレイ事だけではなく、仕事がらみでの嫌な奴に、「いなくなれ!」と念じると、相手がいきなり失脚したり、その会社が潰れたり、不謹慎ながら「不慮の…」となったり…。一時期、それが続いたときに、「不思議」を超えて「怖く」なった記憶があります。

世の中のすべての人の「念」が実現したとしたら大矛盾の世界となりますので、これはやはり「特定された範囲内」、もしくは「ある条件」の中で起こるようなものなのでしょうか。それとも自ら話の腰を折るようですが、やはり「たまたま、偶然」なのでしょうか。私自身は「念じる」と言うことが自分を取り巻く日常的な世界の中に、何らかの物理的な力を「働かせる」「働きかける」ものであると考えています。理由は、ある程度歳をとってみて、それら「念じて」起こったことを振り返ってみると、単体でそうなったのではなく、自分のこれまでの「在り様」に対して玄妙につながっているからです。どれ一つが違えていても、あまり望ましい方向へは行かなかったような…。

ある人にそんな話をした時、「それは君が念じることで具体的な行動を現実に起こしていたから」と言われましたが、違います。そうとは思えない理由は、「他人の事」にまで及んでしまうからです。(良いことではありませんが)私がどうやって「人の健康を害したり」「人の不幸を起こしたり」できるのでしょうか。私を「良く思っていない人」も多くいたと思います。その人たちが私を排除しようと「念じ」、そうなっていたら、私が「あまり良くない事態」に何度も陥っているはずです。「念じる力の強弱」があるのでしょうか? 私は「運の良い側に」にいた…、とか。そこは、要は分かりません。もしかしたら「念じる」とは特殊なことなのでしょうか? 性格のように、そこに何らかの違いがあるとか…。私って、執念深いのかね…。

と、私事はこの辺にしておいて、WEBでいくつかのブログ記事を見ると、この「念」を経験しているということが書かれています。一部にはあきらかに何らかのオカルトかスピリチュアルの立場から書かれているものもありますが、そうではないニュートラルな中で「疑問」として語られている方もいます。やはり、「念じれば通じる」というのはあり得ることなのではないでしょうか。少なくとも私個人は「無い」と思いません。まあ、かといって、「求めよ、さらば与えられん」とか「信じる者は救われる」なんて言葉を安易に持ち出すつもりはありませんが、稚拙な考え方なのですけど、この世の中は「願ったもの勝ち」、そのために「念じた者勝ち」ってなことがあるのではないかな…、と思ってはしまいます。意志の力の強さ、なんてカッコいいものではなく。

ここでハタと思いました。「お金持ちになりたい」とか「女の子にもてたい」とかいった現世利益(げんぜりやく)を願う方は多いのですが、自分の「生き方」に対して「かくありたい」と思えることって結構少ないのでは…。現実的な「欲」をあまり含まぬ「念」が、自分を救ってくれるものなのかも…。って、私の場合は無欲なんて言い切れるほどカッコいいもんじゃなかったですけど。

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