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不思議 その58「最大の不思議は自分 その意識と存在 何故…」


考える フーテンの寅さんじゃありませんが、「それを言っちゃぁ、お終めぇよぉ」ってなタイトルを掲げてしまいましたが、とどのつまりは、どのような不思議なことも、そこに「それを認識する自分」がいて成り立つ(?)わけで、その認識する自分がいるってのは…。そんなことに不思議さを感じたことのある方って多いのでは? 例えば「どうして自分がここにいるんだろう?」、「どうして自分という意識があるんだろう? その意識はどうやって生まれたんだろう?」「どうして自分は、自分なんだろう?」なんて。

まず、「意識って何?」というところから。いつものように新解さん(国語辞典)で見てみると、「自分が今何をしているか、どういう状況に置かれているのかが、自分ではっきりとわかる状態」「その事についての、はっきりした認識」。新解さんでも無難な説明しかできないですよね。Wikipediaで見ても、同じような説明です。「起きている状態にあること(覚醒)」または「自分の今ある状態や、周囲の状況などを認識できている状態のこと」を指す、とのことです。まあ、その意味なんて調べても仕方のないことなのでしょうが。

しかしながら、「意識」とは特級の不思議です。子供のころ、夢想癖のある私は、「なんで、この体の中に自分がいるんだろう」なんて、千日手のようなことを考えて、頭がボーとしてくるのを楽しんでいました。いまだに同じようなことを考えてボーとすることがあります。

ちなみに、自分が「生まれて初めて自分を認識した」「意識を持った」瞬間を覚えている方っていらっしゃいます? 実は私、その記憶があるのです。私は家庭の事情で0歳保育で保育園に預けられていました。余談ですが、幼稚園と保育園は同じではなく、所轄が幼稚園は文部科学省、保育園は厚生労働省で、0~1歳児の保育を認めているのは保育園です。幼稚園は3歳児から。幼稚園の根拠法令は学校教育法、保育園(所)の根拠法令は児童福祉法です。それはさておき、0歳児ですから、当然まだ立って歩けませんので、ベビーベッドに寝かされていました。その時に他の年長の子供が赤ちゃんが珍しいのか、ベッドの中を数人が覗き込んでいました。その景色が、自分の一番古い記憶にあるのです。当然、言葉なんて分かるわけありませんから、「何だ? ここ?」ってな感覚を伴って、今でもハッキリと覚えています。

母親にそれを言ったところ「何言うとんじゃ。そんなん分かるわけないじゃろ、0歳で(方言)」と一笑に付されてしまいましたが。まあ、確かに後から作られた記憶・イメージである可能性はありますけど、あれを全くの勘違い、誤った記憶とは思えません。理由は、そんな記憶を頭にとどめておく(作る)必要がないからです。

その時の感覚をあえて言葉に直せば「あれ…? ここは、何? 何でここに? 自分は…何だ?」ってな感じです。要は、どこからか、ヒョッコリと出て来たって感じで、そこからが私にとっての「意識」の始まりだと(勝手に)思っています。もちろん、前言語的な世界からスタートするわけですが、どのように言葉を覚えていったのかは特に明確な記憶があるわけではありません。時間がかかるものだからでしょう。母親がいうには、よくベラベラと喋る子供だったそうです。今でもそうです。余談。

それから、立派な(?)オヤジになるまで、その意識は連続しているのですが、それが「自分」というものなのでしょうか。いずれは死にますが、その時に自分の「意識」はプッツンと消えてなくなるのでしょうか。それはそのうちに分かるでしょう。ただ、私はこの「自分という意識」が消えてなくなるとは思えないのです。言葉にすれば「輪廻転生」ということになり、それを信じているのかといえば "Yes" です。その考え方の根拠は同じ不思議編のその35「輪廻転生があるから 生命は再生産できる」で書きましたので、興味がおありの方はぜひ。ここでは、その輪廻転生なるものを持ち出すと、テーマがぶれてしまいますので、別のアプローチを試みます。

勘違いであろうと何であろうと、自分の意識が目覚めた(多分)あの瞬間の感覚は、それまで「別の場所」にいた自分の意識が、新しい「容器」の中に入ったような感覚でした。では、その別の場所とは「前世」でしょうか、それとも「あの世」でしょうか。決定的に、これって根拠を明確に持って言えることなどありませんが、いきなりポコンと生まれたものではなく、どこからか出てきたという感覚をもった記憶です。しかも「個」としてではなく、何かの一部として。

話をこ難しくするかもしれませんが、ユングの「普遍的無意識(集合的無意識):補足説明※10」にあるように、あらゆる人間の中に「つながっている意識」があるとすれば、肉体としての存在としては物理的に「個」であっても、その中に入っている(?)「意識」というものは、絶対的な「個」ではないのかもしれません。そう思えるのです。自分が肉体という「箱」のようなものに入れられていると思えば、「孤立」した存在であるように思えますが、人間には「共感」「感情移入」「忖度」「斟酌」「思いやり」など、他の者とシンクロできる能力があります。これは、多少誤解につながりながらも、事実存在します。とすればそこに「孤立」などは無いように考えられます。

どうも話がダッチロールしていきそうなので、この辺にしておきますが、不思議であるということを前提として、人の意識とはもともと「ひとつ」のものから分かれているのではないでしょうか。その器となるのは「生物」という有機物。無機物であるものに「意識」は宿れず、故にAIが「意識」の器になることは無いように思います。人間の「意識」が他の生物とどのように違うのかは難しい問題ですが、生命全体がその進化の中で「意識」なるものを作り上げ、その「かけら」が自分の中にある。そう考えると、何となく、「安堵感」に似たような気持ちを覚えます。で、今日も私の意識は冗長に「何か」を考え、感じています。皆さんも。

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