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不思議 その55「幽霊は何故タクシーに乗るのか 哀しすぎるその想い」


椅子それは確かによくある話です。タクシーが客を乗せ、ふとルームミラーを見ると、そこには客の姿は無く、シートが濡れていた…。これをただの都市伝説ともいえません。よくある話であるからこそ、例えばUFOや心霊写真のように99%を否定されても、残りの1%が否定できなければ、それは「いったい、何なのか?」という疑問の対象となり続けます。

2016年1月21日の朝日新聞夕刊に載っていた記事を読んで、その思いを強くしました。記事を見逃した人のためにその概略を書くと、タイトルは「被災地タクシー 幽霊を乗せて」、サブタイトルは「初夏にコート姿『私は死んだのですか』」で、その記事内容は東日本大震災の最大の被災地、宮城県石巻市のタクシーの運転手たちが体験した幽霊現象を東北学院大学の学生がフィールドワークを通じて、それを卒論テーマとした、というもの。

ある地元のタクシー運転手の体験。震災後の初夏に石巻駅付近で、季節外れのコート姿の女性がタクシーに乗り込み、行き先を「南浜まで」と告げますが、運転手は「あそこは殆ど更地ですが…」と訝しく思って尋ねると、コート姿の女性が震える声で「私は死んだのでしょうか」と答えたといいます。運転手が驚いて振り返ると後部座席にいた筈の女性の姿が消えていたとか…。

こうした話は「怖い」の中に入るのかもしれませんが、私は「不思議」として捉えます。理由は、その記事を何度読んでも、学生は元より運転手の方々の中に「怖い」という感情が見えてはきません。それよりも、その幽霊に畏敬すら評して、大切な体験として心の中にしまっている様子が浮かんできます。運転手の中には、あの震災の津波で身内を亡くした方々もいます。あの大震災は様々な方を「生と死」とに引き裂いたでしょう。しかし、その「生と死」が(この場合のステージは)タクシーという場で接しようとする、そのこと自体への不思議さを強く感じるのです。

フィールドワークはタクシー運転手を対象に100人以上行われたようですが、当然、「震災後、気になる経験はありませんか?」という質問に取り合わない人の方が多かったようですし、怒り出す人もいたようです。そのうちの7人が、自分の不思議な体験を語ってくれたそうです。単なる「錯覚」で片付けようとしても誰かを乗せた記録がメーターには残っています。幽霊は無賃乗車の扱いとなり、事実、その代金は運転手が弁償しているそうです。お金を払わなければならなくなるのに、そうそう「錯覚」でメーターを倒すでしょうか?

別のタクシー運転手の話です。やはり夏に季節外れのコートを着た若い男性を車に乗せ、行き先を尋ねると、真っ直ぐ前を指さしていたとか。何度か行き先を尋ねると、若者は「日和山」と一言答えたそうです。到着した時には、後部座席には若者の姿はもうなかったとか…。「こんなことがまたあっても不思議ではない。また乗せるよ」と答えたタクシー運転手もいたそうです。

私の感じていた「不思議」さは「哀しさ」に代わって行きます。ここではもう「幽霊はいるのかいないのか」などという事はあまり意味も持たず、あの大震災によって引き裂かれた「生の側にいる者」と「死の側にいる者」が「記憶という感応」の中で再会する、誠に「哀しさ」を伴ったリアリティとして、「手触り」を感じるほどの想いとなり、そこに実在するのです。それを幽霊というのなら、幽霊であり、生者に何かを訴えようとする存在です。

その幽霊が、何故、タクシーに乗ろうとするのかという事に関しては、卒論を書く学生が「やりきれない気持ちを伝えたくて、個室空間のタクシーを媒体に選んだのでは」と考えているそうですが、私は特にタクシーという事はあまり関係が無く、それは「タクシーに乗る」という「かつての日常」全てがステージになっているのだと考えます。ですから、学校に現れる事も、駅に現れる事も、スーパーや飲食店に現れる事もあるでしょう。「死と生」はいまだ、そこで共存していると考えれば、図らずも「死の側」に行かざるを得なかった人たちの想いを、「生の側」にいる者たちはどのようにして受け取るべきなのでしょうか。「記憶」の中に「死の側」の人たちを留める事によって、「生と死」に引き裂かれる事無く、その存在を共有できるのではないかと考えます。

「残留思念(補足説明※45)」という言葉がありますが、「生」に対する想いが留まるという事は、空中に漂っているのではなく、「生の側」の者を媒介にして残るのではないでしょうか。そこにある思いは「無念」「やり切れない」「哀しい」ものであるでしょう。そうした「死の側」にある者の想いを「生の側」にある者は「受け止め続ける」べきです。誰にでも「生」は現実として理解できても、「死」は誰もが生まれて初めて、しかも一度だけ、必ず訪れるものとして「その時」にだけにしか分かる事が出来ないものです。

日常風景の中で「生者」が「死」に対して鈍感になること、例えば幽霊を完全否定するなど、これは「恐い」事であると思います。「生と死」を「無常」という中で、不断に意識できれば、それは共存できるものであると考えます。われわれは皆、「緩慢なる死」を迎える身ですから。

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