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不思議 その48「身体地図 体の中に地図がある…?」


身体地図今回は少々アカデミックに行きます(どこが?)。人の体の中には「地図」があります。といっても、ここに心臓、ここに腎臓、ここに胃袋、ここに○○○コといった解剖図ではありません。ボディ・マップとも表現されているようですが、私はン十年前の学生時代、心理学の講義で初めてこの言葉を知り、「へー…」と思いました。

私も「身体地図」と聞いた瞬間、「解剖図のことかな…」と思ったのですが、簡単に言えば「自分の頭は今ここでこうなっていて、自分の右手は今ここにあって、物をつかんでいる」「自分は今、中腰になっている」と云ったように「自分の身体の状況を把握する事」です。と同時に「外部と自分を区別できる事」です。「何だ、そんなことか」などと思ってはいけません。これは、当然、運動能力にも関わることですし、健全な身体能力を維持できているという証なのです。のみならず、精神の状態にも影響する事なのです。

もちろんそれが物理的な器質的損傷によって損なわれることもありますけど、それは失った部分であり、全体としては統合されています。ちなみに「幻肢」というものもあり、「幻影肢」とも云うようですが、例えば腕を事故で切断した人が、まだ腕があるように感じることです。これも身体地図の中の感覚として残っているからでしょう。

ここまでの話ならそれほど「不思議」とも感じない、人間が当然持っている生物としての能力だということで終わりなのですが、前述した通り、それだけで終わりの話ではなく、これが人の精神状態にも大きく影響するということがあるのです。つまり、この身体地図を失う状況になると、同時に精神の安定も損なってしまうようです。もちろん、精神の安定を失うから、身体地図を失ってしまうのか、その逆なのかは「鶏と卵」になってしまいますが、そこはおそらくバランスという意味では「同列」なのだと思います。

この「身体地図」なるもので興味深かったのは、確か(記憶が少々曖昧…)「ブラック・ルーム」という実験の話です。

どのような実験かと云いますと、心身ともに健全な被験者を真っ暗な部屋に入れます。この部屋は真っ暗なだけではなく、「熱くも寒くもなく」「湿度も快適」「何の音もしない」、外界の刺激というものから完全に遮断された空間です。

その部屋、ブラック・ルームに入れられた被験者は皆、最初は「かなり快適な空間」と感じるようです。そして、ほぼ全員が寝てしまうそうです。しかも熟睡。夢は見るようですが。しばらくは寝て起きてを繰り返し、快適な状況に爽快感さえ覚えるようです。

しかし、それが1日以上(個人差はあるでしょうね)経つと、今度は何故か「不安感」に襲われ始めます。どうしてそうなるのか、本人には分からないそうですが、次第に不安感が増してゆき、それが「恐怖」に近い感情に変わっていくそうです。

当然、実験ですから、被験者の安全は確保して行われますけど、その「恐怖」はやがて「情緒不安定」「神経症」的な症状を見せ始め、そこまでは行かないでしょうが「発狂」の可能性さえあるそうです。

何故でしょう? 最初は「快適」「爽快」とさえ感じていたのが、どうして「不安」「恐怖」といった感情に変化してしまうのか。

結論から言えば、原因は「身体地図の喪失」だそうです。被験者はその殆ど(例外は無かったような…)が、最初の快適さから「不安・恐怖」へと至る過程で、自分が今「どのような格好をしているのか」が分からなくなるそうです。下を向いているのか、上を向いているのか、手はどこにあるのか、足はどういう格好をしているのか…。挙句には、外部と自分の境、自分の身体が「無くなったような」感覚に陥ってしまうようです。

これは想像するしかないのですが、「自分がいる」というのは、「目で見て」という直接的なことよりも、脳が総合的に感じているのでしょう。もちろん視覚的なものも重要でしょうが、音とか、熱い寒いとかといった「外部からの刺激」によって、「自分という存在」を生理的に認識しているということです。ブラック・ルームの中でその「外部からの刺激」を全て失った時、「自分という存在」の認識である「身体地図」を失ってしまうのだと考えられます。

その「外部からの刺激」とは「ストレス」です。つまり、よくストレスは「悪者」扱いされますが、それは「過剰」なストレスで、生物としては適度なストレスがないと「身体」というか、「統合された精神活動」に不具合を生じてしまうのでしょう。

「引きこもり」と、この「ブラック・ルーム」の本質は違うと思います。「引きこもり」は過剰なストレスからの緊急避難がその殆どの原因ではないかと推察します。その後どうなるのかは個々人しだいです。

「人の存在」とは哲学の永遠のテーマでしょうが、その存在を支えているのは「外部からの絶え間ない刺激」ということになります。デカルトの「吾思う、故に吾あり:コギト・エルゴ・スム(Cogito,ergo sum.)」の言葉は、「私は世界を感じ、世界に向かって考えている。だから私は存在する」とでも訳せば、まさにこの「身体地図」を健全に保っているということなのでしょう。まあ、そんなに単純なものではないと思いますけど…。

ちなみに、WEBで見かけたのですが、「身体地図とは車両感覚のようなものでしょうか」という質問がありましたが、違います。もちろん「身体地図」を失えば自動車は運転できませんが、正確には「車両感覚(あらゆる運動)は身体地図によって把握されている」って所でしょうか。

ところで、私は自慢したいほどの方向音痴ですが、もしかして身体地図が間違っているのでは…。

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