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不思議 その38「人間には何故 神が必要なのか?」


天地唐突に「大ネタ」をかけるようですが、私は特定の宗教団体には所属していません。まあ、葬式をやるとしたら浄土真宗という事になるのでしょうが、何々の宗教に属している者ではありません。では「無神論者」なのかというと、変な表現ですが、自分は「極めて信心深い」と思っています。しかし、信心の対象に「名前」はありません。あえて呼称するとすれば「神(仏でもいいのですけど)」でしょう。「???」と思われるかもしれませんが、そうとしか説明できないのです。私には「神」が、人の形をして、人の言葉(だいたい、何語?)を喋り、その姿を現すものとは思えません。それは「在るもの」として感じています。

キリスト教では「神は自らの姿に似せて人間を創った」とありますが、その神なるものが「人間」であるという事でしょうか? 同じ姿なのですから。神が服を着て、靴を履いて髪を梳かして歩いているのでしょうか? どこで? 天国? 「人間は人間であり、神は神」ではないでしょうか。神が饒舌になった時、それは極めて恣意的な存在であり、人間の上位に常に君臨し続けるものであり、支配するものになると思います。神とは「沈黙し、語らず、教えず、支配せず、ただ在るもの」というのが、私の考えです。

私が知る限り、それに近い神は「日本の神道」の神でしょう。多神教ですが、最高神は「造化の三神」である「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」「高御産巣日神(たかみむすひのかみ)」「神産巣日神(かみむすひのかみ)」の三柱(柱は神道での神の単位)。人格神ではなく、男女の性別さえもありません。神道には「教え」、つまり経典のようなものはありません。その辺りは兄弟サイトの「テキトー雑学堂:人文・思想その11」に書きましたので、興味のある方はご参考までに。

人が「神」を必要としたのは、その知能を発達させたが故に「死」というものを発見し、それを恐れたためであると考えます。それと同時に「生」も知る事になる訳ですが、その時に「死」の恐れに対して「救い」を求めるのか、「死」を「生」の不可避な結末として「受け入れる」のかで、神の体系世界である「宗教」の在り方は変わってきます。キリスト教も仏教もイスラム教も「信仰」との引き換えに「救い」を説いています。神道は誰も救いません。というよりも、ただただ「清浄」を求め、「安寧」を求めています。それは「祓い・浄め」や「祝詞」の中に現れています。「救い」なんて概念はありません。それに、もともとが神は人と共にある「一元的」世界観の宗教です。

話が逸れたような気がしますので元に戻しますが、「神を信じますか」と聞かれれば、「いないと思う方が違和感を感じる」とこれまた、テキトーに思われるような事を答えます。例えば、物理学や天文学、量子力学、文学、社会学、経済学等々、どのような分野からアプローチして考えようが「神がいないと思う方が不自然」と感じるのです。まあ、これは元より「個人の自由」なのですが、そのようなものを前提にしなくとも、この世界が「物理法則」だけに支配されているとは全く思えません。「神」なるものの存在を空気の如く受け入れられるのは「自分の存在」を考えた時です。これ以上不思議で、どのような思索も、循環する閉鎖回路に閉じ込めてしまうものはありません。

もっとストレートに言えば「命」と、それを成立させる「世界」を考える時です。それがすべて「物理」であり、「神」などいないとすれば、これほど荒涼とした世界は無いのではないでしょうか。その中にある「命を持った人間」も「なぜ考える」のかさえ、意味を見出すのが難しくなってくるのでは。よく言われる「我々は、生きているのではなく、生かされている」という事は、何の疑問もなく腑にストンと落ちます。その「生かしてくれているもの」が即ち「神」であると思います。どんな姿をしているのかは知りませんが。

既成の宗教は否定も何もしません。ただし、「何々教に入っていなければ、無神論者」という暴論は否定しますけど。人は「神」無しでは存在できないのでは…。全ての命を「生かしてくれている」「生きる事を肯定してくれる」存在がなければ。統計はありませんが(多分、どこにもないでしょう)、世界で最も多い「信仰」なるものがあるとすれば、それは「マリア信仰」ではないかと思っています。象徴としてのマリアは「人の全てを受け入れ、必ず人の(あなたの)そばにいること」を約束してくれます。そして、人も「マリアを信頼し、全てを受け入れ」ます。私にとっては、神道以外で一番すっきりくる「神の在り方」「神と人との関わり方」です。

人は、その「知能」と引き換えに「生きる事の心細さ、不安」を知り、それゆえに「生かしてくれている神」なる存在が不可欠になったのだと思います。キリスト教の「汝、神を試すことなかれ」との言葉も、遠藤周作の「沈黙」の中での「神への懐疑」も、ともに人が「神への過剰な依存心」を持つ事を表しているように思います。依存心のある所にいる「神」が、もしそれに答えてくれたらどうなるのでしょうか。世の中のバランスは崩れてしまいます。様々な神が現れては消えるでしょう。実際、歴史をみると、そうです。

人が「何事もなく平穏である事」を願い祈った時、その人は極めて「宗教的な存在」「神と共にある人」になるのだと思います。故に、呼吸をするがごとくに「神」は存在すると考えます。いや、「神」とは「命と世界」のバランスを保つために必ず必要な物であり、それがまだ不完全であるとはいえ、いまだ人がその命脈を保ち得ているのは、その「神」の存在抜きに考えられません。人にとって「神」の否定により得られるものは何もなく、その存在を信じる事によって、身近で日常的な世界に「平穏」をもたらす「バランス力」を人の精神は持ち得るのでしょう。人間世界の「治癒能力」「回復能力」こそが「神の存在の証」であり、その必要性の根拠です。倒錯的に言えば、「人が自らの必要性により、神なる存在を創り出した」ともいえます。

「あなたは神を信じますか」とよく昔、街頭で宣教師だか牧師だか分かりませんが、声をかけられましたが、「あったりまえだよ。…それで?」と答えて終わりです。

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